大学東校

高校日本史的重要度

大学東校 (だいがくとうこう)

1869〜1872年

【概説】
明治初期に設置された「大学校」のうち、旧幕府医学所を起源とし、西洋医学の教育と研究を担った部門。儒学国学を講じる大学本校、洋学・語学を講じる大学南校とともに新政府の最高教育機関を構成した。現在の東京大学医学部の直接の前身にあたる組織である。

幕末の医学所から「大学東校」への改編

明治新政府は、近代国家にふさわしい人材を育成するため、1869(明治2)年に旧幕府の学問所を統合・改編する形で最高教育機関である「大学校」を整備した。このとき、昌平学校が「大学本校」(儒学国学担当)、開成学校が「大学南校」(洋学・語学担当)となり、旧幕府医学所を統合した医学校大学東校へと改編された。

大学東校の前身である幕府の医学所は、もともとお玉が池種痘所に端を発し、西洋医学(特に蘭医学)の教育・診療機関として発展した歴史を持つ。明治新政府はこれを接収して官立の医学校とし、さらに大学校の東校へと組織化して近代医学教育の拠点とした。

ドイツ医学の採用と東京大学への発展

大学東校は、日本の近代医学における主流を決定づけた点できわめて重要な意義を持つ。新政府はそれまでの主流であったイギリス・フランス医学ではなく、当時の医学先進国であったドイツからお雇い外国人医師であるホフマンミュルレルらを招請した。これにより、日本の医学教育はドイツ医学を模範として本格的に始動することとなった。

その後、国学儒学派と洋学派の対立により大学本校が閉鎖されると、最高教育機関の枠組みは再編を余儀なくされた。大学東校は「東校」への改称や「第一大学区第一番医学校」などの変遷を経て、1874(明治7)年に東京医学校となる。そして1877(明治10)年、東京開成学校(南校の後身)と合併し、日本初の近代大学である東京大学(現在の東京大学医学部)へと発展を遂げることとなった。

最終更新:
2026年6月16日 @ 07:28

日本史一問一答(ランダム)

Q. 第1次山県内閣・第1次松方内閣の外務大臣としてイギリスとの条約改正交渉を進めたが、大津事件の責任をとって辞任した人物は誰か?
Q. 田沼意次が、国産化に成功した高価な薬用植物の種子の販売などを幕府の専売とするために設けた機関は何か?
Q. 三韓の一つで、朝鮮半島南東部に位置し、のちに新羅(しらぎ)へと発展した小国連合を何というか?