園城寺(三井寺) (おんじょうじ / みいでら)
【概説】
滋賀県大津市に所在する、天台寺門宗の総本山。9世紀に比叡山から入った円珍の門流(寺門派)の拠点として栄え、比叡山延暦寺(山門派)と激しく対立した。国宝の金堂をはじめとする豊富な文化財を現代に伝える、日本仏教史上極めて重要な位置を占める古刹である。
草創と円珍による再興
園城寺の起源は古く、大友氏(天智天皇の子・大友皇子の系譜)が氏寺として建立したことに始まると伝える。天武天皇より「園城寺」の勅額を賜ったとされるが、当初は地方の豪族寺院に過ぎなかった。また、境内にある霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯に用いられたことから、「御井(みい)の寺」と呼ばれ、これがのちに「三井寺」という通称の由来となった。
この寺院が大きな転換期を迎えたのは、平安時代中期の9世紀半ばである。最澄の死後、天台宗内部で密教(台密)の教理をめぐり、比叡山内で独自の地位を築いた円珍(智証大師)が園城寺に入り、天台宗の修行道場として再整備した。これにより園城寺は、天台宗における密教教学の一大拠点として急速に発展することとなった。
「山門」と「寺門」の相克
円珍の死後、天台宗の内部では最澄直系の慈覚大師円仁の系統(山門派、本山は比叡山延暦寺)と、円珍の系統(寺門派、本山は園城寺)の間で、教理や法脈の正統性をめぐる対立が表面化した。10世紀末、円珍派の僧・余慶が延暦寺のトップである天台座主に就任したことを契機に両派の衝突は爆発し、追放された円珍派の僧徒らが一斉に比叡山を下りて園城寺へと移った。ここに天台宗は「山門」と「寺門」に完全に分裂することとなった。
平安時代末期から中世にかけて、両派の対立は武力衝突へと発展した。延暦寺の僧兵(山法師)はたびたび比叡山を下りて園城寺を襲撃し、おびただしい数の堂宇が焼き払われた。園城寺側も独自の武力(僧兵)を組織してこれに対抗した。この抗争は、源平合戦(治承・寿永の乱)や南北朝時代の動乱など、当時の政治勢力の争いとも複雑に絡み合い、園城寺は何度も灰燼に帰しながらも、その都度再建を果たした。こうした不屈の歴史から、園城寺は後世に「不死鳥の寺」とも称されるようになった。