足利義輝 (あしかがよしてる)
【概説】
室町幕府第13代征夷大将軍。武芸に秀で「剣豪将軍」の異名を持ち、失墜した幕府権威の復興に向けて精力的に活動した人物。しかし、畿内で実権を握る三好三人衆や松永久秀らと対立し、二条御所で急襲されて非業の死を遂げた。
将軍権威の復活をかけた諸大名への調停外交
足利義輝が将軍に就任した時期、室町幕府の権力は極限まで低下しており、畿内の実権は細川氏やそれを下剋上で乗り越えた三好長慶らに握られていた。義輝自身、一時は近江国へ逃亡を余儀なくされるなど、名ばかりの将軍に甘んじていた。しかし、義輝は幕府再興の志を捨てず、戦国大名間の紛争を調停する「将軍の権威」を巧みに利用した外交を展開する。
彼は、甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信(長尾景虎)の川中島の戦いにおける和睦斡旋や、九州における大友氏・島津氏・毛利氏らの争いに対して積極的な調停を行った。また、織田信長や上杉謙信ら有力大名の上洛を促し、彼らに将軍の直臣としての正統性を与えることで、全国的なネットワークの中に「室町将軍」の存在感を再び位置づけようと試みたのである。
「剣豪将軍」としての武芸百般と執念
義輝は歴代の足利将軍の中でも際立って武芸に秀でていたことで知られ、後世に「剣豪将軍」と称された。新陰流の祖である上泉信綱や、鹿島新当流の塚原卜伝といった当代一流の剣豪から直接指導を受け、秘伝を伝授されたとされている。
彼がこれほどまでに武芸を極めようとした背景には、戦国乱世において武家の棟梁たる将軍自らが圧倒的な武力を示さねばならないという、強い自負と危機感があったと考えられている。義輝は将軍家の伝来の名刀を数多く所持し、心身ともに強靭な支配者であろうとした。
永禄の変と室町幕府の崩壊への加速
義輝の精力的な幕府再権の動きは、畿内を掌握し続けようとする三好氏一門にとって次第に目障りな存在となっていった。1564年に実力者である三好長慶が病没すると、三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)や松永久秀らは、義輝を廃して傀儡の将軍を擁立することを画策する。
1565年(永禄8年)5月19日、三好三人衆と松永の手勢が義輝の居城である二条御所を突如包囲、襲撃した(永禄の変)。この際、義輝は将軍家に伝わる数々の名刀を畳に突き刺し、刃こぼれするたびに取り替えながら、自ら太刀を振るって敵兵を次々と斬り倒すという凄絶な奮戦を見せたと伝わる。しかし、多勢に無勢であり、最期は障子や畳を盾にした敵兵に囲まれ、壮絶な最期を遂げた。
この現職将軍の暗殺という前代未聞の事件は、室町幕府の崩壊を決定づけた。同時に、この混乱を収拾するために弟の足利義昭が織田信長を頼って上洛する契機となり、時代は安土桃山時代へと大きく動くこととなる。