トンキン湾事件 (とんきんわんじけん)
【概説】
1964年8月、ベトナム民主共和国(北ベトナム)沖のトンキン湾において、アメリカ海軍の駆逐艦が北ベトナム軍から攻撃を受けたとされた事件。これを契機にアメリカはベトナム戦争への本格的な軍事介入へと踏み切ったが、後に事件の一部はアメリカ側による「捏造」であったことが判明した。
事件の発生と米軍本格介入の「口実」
1964年8月2日および4日、トンキン湾を哨戒中であったアメリカ海軍の駆逐艦マドックスが、北ベトナムの魚雷艇から魚雷攻撃を受けたと報告された。ジョンソン米大統領はこれを「公海における不法な攻撃」と激しく非難し、議会に対して自衛行動のための権限強化を要請した。これを受けてアメリカ連邦議会は、大統領に軍事行動の全権を委ねる「トンキン湾決議」を圧倒的多数で採択した。
この決議を法的根拠として、アメリカは1965年2月より北爆(北ベトナム爆撃)を開始し、翌月にはダナンに地上戦闘部隊を上陸させた。それまで「軍事顧問団」の派遣と資金援助を中心としていたアメリカのベトナム介入は、この事件を機に本格的な武力介入へと突入し、ベトナム戦争は泥沼の大規模戦争へと発展することとなった。しかし、1971年に国防総省の機密文書(ペンタゴン・ペーパーズ)が暴露されたことで、2回目の攻撃(8月4日)は米軍の誤認、あるいは介入の口実作りのための「捏造」であったことが明らかになり、今日ではアメリカの戦争介入史における最大の欺瞞の一つとして評価されている。
日本への多大な影響と反戦運動の興隆
トンキン湾事件とそれに続くベトナム戦争の激化は、昭和の日本社会や外交政策にも重大な影響を及ぼした。当時、池田勇人内閣およびその後の佐藤栄作内閣は、日米安全保障条約を基軸とする外交方針からアメリカの政策を一貫して支持した。しかし、米軍が日本国内の横須賀や佐世保などの基地、そして当時はまだアメリカの施政権下にあった沖縄の基地をベトナムへの出撃・補給拠点として直接使用したため、日本が戦争に巻き込まれること、あるいは加害者側として加担することへの危機感が日本国民の間で急速に高まった。
この危機感を背景に、知識人や市民が自発的に結集した「ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)」が結成され、デモや米兵の脱走支援など、従来の政党や労働組合の枠組みを超えた新しい市民運動が全国に広がった。また、ベトナム戦争における沖縄の基地機能の重要性が浮き彫りになったことは、日本国民に沖縄の現状を再認識させ、後の沖縄返還運動の熱をさらに高める契機ともなった。トンキン湾事件は、日本が戦後世界の冷戦構造と日米安保体制の中でどのように振る舞うべきかを、国民規模で厳しく問い直す契機となった歴史的事件であった。