南ベトナム解放民族戦線(ベトコン) (みなみべとなむかいほうみんぞくせんせん)
【概説】
1960年に結成され、アメリカの支援を受ける南ベトナム(ベトナム共和国)の親米政権を打倒するためにゲリラ戦を展開した反政府統一戦線。アメリカや南ベトナム政府からは「ベトコン(ベトナム共産主義者の略称)」と蔑称された。ベトナム戦争における抵抗主体の象徴であり、冷戦下の昭和の日本における社会運動や対米外交にも多大な影響を及ぼした。
結成の背景とゲリラ戦の展開
1954年のジュネーヴ協定によってベトナムは暫定的に南北に分断されたが、南ベトナムに成立した親米的なゴ・ディン・ジエム政権は、南北統一選挙を拒否して独裁と仏教徒弾圧を強めた。これに反発する南ベトナム国内の共産主義者や反政府勢力が結集し、1960年12月に南ベトナム解放民族戦線を結成した。同戦線は、北ベトナム(ベトナム民主共和国)からの支援を受けつつ、ジャングルや地下トンネル網を駆使したゲリラ戦を展開し、介入を本格化させたアメリカ軍を泥沼の消耗戦へと引きずり込んだ。
昭和の日本社会とベトナム反戦運動の勃興
南ベトナム解放民族戦線による抵抗と、それに対する米軍の北爆(北ベトナム空爆)や枯葉剤散布といった過酷な軍事行動は、日本のメディアを通じてリアルタイムで報道された。これは昭和40年代(1960年代後半〜1970年代前半)の日本社会に、強い反戦・平和の世論を喚起することとなった。特に小田実ら知識人を中心に結成されたベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)は、従来の組織主導ではない、市民による自発的な新しい市民運動の形態を確立し、南ベトナム解放民族戦線の闘争を「大国に抗う民族自決の戦い」として支援・共感する言説が思想界や学生運動の中で広がった。
安保体制への揺さぶりと昭和史における意義
当時、日本政府(佐藤栄作内閣)は日米同盟を最優先とし、米国のベトナム介入を支持する立場をとっていた。米軍は沖縄の基地や本土の横須賀、佐世保などをベトナム出撃や兵站の拠点として活用しており、日本は事実上の戦争加担国となっていた。この事実に憤った学生や市民による1970年安保闘争や、沖縄の米軍基地返還を求める運動は、南ベトナム解放民族戦線のゲリラ戦に呼応するかのように日本国内で激化し、戦後日本の安全保障政策や平和主義のあり方を激しく揺さぶる契機となった。1975年のサイゴン陥落(ベトナム戦争終結)を経て、翌1976年に南北ベトナムが統一されたことで同戦線は発展的に解消されたが、その存在は日本の昭和社会運動史に不滅の足跡を残した。