北緯17度線 (ほくいじゅうななどせん)
【概説】
1954年のジュネーヴ休戦協定に基づき、ベトナムを南北に分断するために設定された軍事境界線。第一次インドシナ戦争の終結にともない画定され、南北ベトナムに異なる政権が並立する契機となった。アジアにおける東西冷戦の激化を象徴する境界線であり、のちのベトナム戦争へとつながる構造を生み出した。
ジュネーヴ休戦協定と南北分断の成立
1946年から続いたフランスとベトミン(ベトナム独立同盟)との第一次インドシナ戦争は、1954年の「ディエンビエンフーの戦い」におけるフランス軍の決定的な敗北によって終局へ向かった。同年に開催されたジュネーヴ平和会議においてジュネーヴ休戦協定が結ばれ、ベトナムを暫定的に南北に分かつ境界として、ほぼ北緯17度付近(ベンハイ川の水路)に軍事境界線(DMZ:非武装地帯)が設定された。
この境界線は、本来であれば2年以内に実施されるはずであった「南北統一総選挙」までの暫定的な措置にすぎなかった。しかし、東南アジアにおけるドミノ理論(一国が共産化すれば隣国も連鎖的に共産化するという懸念)を恐れたアメリカ合衆国が介入を強めたことにより、選挙は実施されず、分断は固定化されることとなった。
冷戦の最前線とベトナム戦争への発展
北緯17度線の北側には、ホー・チ・ミンを国家主席とする社会主義体制のベトナム民主共和国(北ベトナム)が、南側にはアメリカの支援のもとでゴ・ディン・ジエムが大統領に就任したベトナム共和国(南ベトナム)が成立した。これにより、朝鮮半島の北緯38度線と同様に、アジアにおける資本主義陣営と社会主義陣営の対立を直接的に象徴する最前線となった。
南ベトナム国内で反政府・反美武装闘争を展開した南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)に対し、北ベトナムはラオスやカンボジアを経由する迂回路(いわゆるホーチミン・ルート)を使って物資や人員を補給した。アメリカは北緯17度線を越える「北爆」を1965年から本格化させ、泥沼のベトナム戦争へと突き進んでいくこととなった。
昭和の日本社会・外交に与えた影響
ベトナムを分断した北緯17度線をめぐる戦乱は、昭和時代の日本にとっても決して対岸の火事ではなかった。第二次世界大戦後の日本は、日米安全保障条約に基づき、沖縄や本土の米軍基地をベトナムへの中継・出撃拠点として提供することとなった。また、戦争にともなう軍需物資や修繕の需要は、朝鮮戦争に続く「ベトナム特需」を日本経済にもたらし、高度経済成長を後押しする一因となった。
その一方で、凄惨を極める戦場の報道は日本の世論を大きく動かした。「ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)」をはじめとする市民による広範な反戦・平和運動が巻き起こり、日本の戦争加担を批判する声が高まった。1975年のサイゴン陥落、そして1976年のベトナム社会主義共和国の誕生にともない北緯17度線は軍事境界線としての役割を終えたが、この分断線は戦後日本のアジア外交と市民意識のあり方に大きな足跡を残した。