東密 (とうみつ)
【概説】
平安時代初期に空海が唐より伝え、東寺(教王護国寺)を根本道場として発展した真言宗の密教。比叡山延暦寺を中心に展開した天台宗の密教(台密)に対して、東寺の密教という意味からこの名で呼ばれる。加持祈祷による現世利益の追求を通じて皇室や平安貴族に深く受容され、平安仏教の主流を形成した。
空海の入唐求法と東寺の下賜
延暦23年(804年)、最澄らとともに遣唐使として渡唐した空海は、長安の青龍寺において密教の正統な継承者である恵果(けいか)に師事した。空海は短期間のうちに密教の奥義を授かり、帰国後に真言宗を開いた。弘仁14年(823年)、嵯峨天皇より平安京の南大門に位置する官寺・東寺(教王護国寺)を下賜されたことで、東寺は真言密教の根本道場(国家鎮護の道場)となった。これ以降、高野山金剛峯寺と並ぶ真言密教の二大拠点として機能し、特に東寺を中心とする教学・儀礼の系統が「東密」と呼ばれる起源となった。
「純密」としての東密と「台密」との相違
東密の最大の歴史的特徴は、インド・唐で体系化された正統な密教である「純密(じゅんみつ)」をそのまま継承している点にある。これに対し、天台宗の最澄が伝えた密教は、天台の教理と密教が混ざり合った「雑密(ぞうみつ)」的な要素から出発しており、のちに円仁や円珍らによって体系化され「台密(たいみつ)」と呼ばれるようになった。東密は宇宙の真理そのものである大日如来を本尊とし、凡夫がその身のままで仏になる「即身成仏(そくしんじょうぶつ)」を説く。理論を追究する「教相(きょうそう)」と、実際の修法を行う「事相(じそう)」が緊密に結びついている点が教理上の大きな特色である。
平安貴族社会への浸透と「野沢」の分派
東密は、国家の安泰を祈る「鎮護国家」の役割を果たす一方で、個人の病気平癒や怨霊調伏、安産などを祈る加持祈祷(かじきとう)の威力によって、平安貴族や皇室の心を強く捉えた。これにより、藤原氏をはじめとする有力貴族との結びつきが強まり、社会的地位を不動のものとした。平安中期以降、東密は宇多法皇の帰依を受けた益信(やくしん)を祖とする「広沢流(ひろさわりゅう)」と、醍醐寺を拠点とする聖宝(しょうぼう)を祖とする「小野流(おのりゅう)」の二流(これらは総称して「野沢(やたく)」と呼ばれる)に分かれ、儀礼(事相)の細分化と精緻化が進んでいった。これらの思想と文化は、日本の仏教美術(曼荼羅や仏像)や、のちの修験道(しゅげんどう)の発展にも決定的な影響を与えた。