国粋主義 (こくすいしゅぎ)
【概説】
明治中期において、政府が推進した極端な欧化政策(欧化主義)への批判・反動として台頭したナショナリズム思想。日本の伝統的な文化、精神、美徳(国粋)の価値を再評価し、それらを保存・発揚しながら独自の近代化を進めることを主張した。
欧化主義への反発と「政教社」の結成
明治政府は、不平等条約の改正を有利に進めるため、鹿鳴館に象徴される極端な西洋化(欧化政策)を推進した。しかし、外務大臣・井上馨による条約改正交渉が内政干渉を許すような屈辱的な内容であったことが露見すると、政府への不満とともに、盲目的な西洋模倣に対する強い批判が沸き起こった。
このような状況下、1888(明治21)年に三宅雪嶺、志賀重昂、杉浦重剛らによって言論団体「政教社」が結成され、機関誌『日本人』が創刊された。彼らは、日本の独自性や美点を保持しつつ近代化を図るべきであるとする「国粋保存主義」(国粋主義)を提唱し、当時の知識人や青年に大きな影響を与えた。
「懐古主義」ではない主体的な近代化の模索
国粋主義は、しばしば江戸時代以前の攘夷論のような「単なる排外主義や懐古的な保守主義」と混同されがちだが、その本質は異なる。志賀重昂らは、欧米の優れた学術や技術、社会制度を導入すること自体は否定せず、むしろそれを積極的に認めていた。
彼らが警戒したのは、西洋文明の「精神的隷属」であり、日本独自の個性や歴史的伝統を失うことであった。志賀重昂が著した『日本風景論』に見られるように、日本の豊かな自然や独自の風土に根ざした国民性を誇り、それを基盤としながら、主体的かつ自立的な近代国家を建設することを目指した点が特徴である。
国民主義との共鳴とナショナリズムの変容
国粋主義は、同時期に陸羯南らが主宰する新聞『日本』が唱えた「国民主義」と深く結びつき、明治中期の言論界をリードした。彼らは、天皇中心の国家統合を肯定しつつも、政府の薩長藩閥政治を「平民の権利を軽視している」として厳しく批判し、憲法に基づく議会政治や世論の尊重を求めた。
しかし、日清戦争や日露戦争を経て国家意識(愛国心)が国民全体に浸透するにつれ、当初の理性的・進歩的な国粋主義は、次第に対外強硬論へと傾斜していく。大正から昭和期にかけて、この思想は合理性を失い、天皇を中心とする日本の優越性を盲信する「超国家主義(ウルトラ・ナショナリズム)」へと変質し、軍国主義を支える精神的支柱の一つとなっていくことになった。