大坂冬の陣
【概説】
1614(慶長19)年、方広寺鐘銘事件を契機として徳川家康が豊臣秀頼を攻めた戦い。真田信繁らが築いた「真田丸」での激しい攻防などを経て、最終的に大坂城の堀を埋め立てることを条件に和議が結ばれた。江戸幕府による豊臣氏排除の決定的な一歩であり、翌年の大坂夏の陣へと続く重要な歴史的転換点となった。
開戦に至る背景と方広寺鐘銘事件
1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、1603(慶長8)年に征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開いた。しかし、大坂城には依然として豊臣秀吉の遺児である豊臣秀頼が在城しており、摂関家の家格と莫大な蓄財を背景に、西国を中心とする大名たちに対して強大な影響力を保持していた。家康は幕藩体制の確立を確固たるものにするため、豊臣家を一大名として臣従させるか、あるいは完全に排除する機会をうかがっていた。
そのような中、1614(慶長19)年に豊臣方が再興した京都・方広寺の梵鐘の銘文「国家安康」「君臣豊楽」について、家康は「家康の諱を割って呪詛し、豊臣の繁栄を願うものだ」と強引な言いがかりをつけた(方広寺鐘銘事件)。これを口実として家康は豊臣氏に強硬な要求を突きつけ、最終的に両者の交渉は決裂して開戦へと至ったのである。
徳川の大包囲網と浪人たちの集結
1614年11月、家康は全国の大名に動員令を下し、総勢約20万とも言われる圧倒的な大軍で大坂城を包囲した。これに対し豊臣方は、全国から関ヶ原の戦いやその後の政争で改易され、主家を失った浪人(牢人)を大々的に募集した。
大坂城には、真田信繁(幸村)をはじめ、長宗我部盛親、後藤基次(又兵衛)、毛利勝永、明石全登ら名だたる歴戦の勇将たちが集結し、その総兵力は約10万に達した。豊臣軍の防衛拠点である大坂城は、かつて秀吉が天下人の威信をかけて築いた難攻不落の巨城であり、周囲を河川や海、深く広大な堀に囲まれた極めて防御力の高い要塞であった。
真田丸の攻防と砲撃による心理戦
大坂城の唯一の弱点とされたのが、台地に連なり空堀しかなかった南側の防御であった。真田信繁はこれを補強するため、平野口の南に「真田丸」と呼ばれる巨大な出丸(半独立した防御陣地)を構築した。同年12月、前田利常や井伊直孝、松平忠直らが率いる徳川方の軍勢が真田丸に猛攻を仕掛けたが、真田方の鉄砲隊による計算し尽くされた激しい反撃に遭い、多大な死傷者を出して敗退した。
真田丸の戦いなどによって力攻めでの落城は困難と悟った家康は、戦術を転換した。イギリスやオランダから購入していた大筒(大砲)を用いて、大坂城の本丸や天守に向けた昼夜を問わない無差別砲撃を開始したのである。この砲弾の一つが秀頼の母・淀殿の居室近くに命中し、侍女が犠牲になったことで、豊臣方の継戦意欲は急激に削がれ、城内は一気に和議へと傾いた。
和議の成立と大坂城の裸城化
1614(慶長19)年12月末、徳川家康と淀殿・秀頼との間で和議が成立した。その条件の核心は、大坂城の本丸を残して二の丸・三の丸を破却し、外堀と内堀を埋め立てるというものであった。
和議成立直後から徳川方は諸大名を動員して突貫工事を強行し、豊臣方の抗議を黙殺して外堀のみならず内堀までも完全に埋め立ててしまった。これにより、大坂城はかつての威容を失い、防御能力を全く持たない「裸城」と化した。
大坂冬の陣におけるこの和議は、実質的に徳川方による豊臣氏包囲網の総仕上げであり、計算し尽くされた一時的な休戦に過ぎなかった。防衛網を剥奪された豊臣氏に対し、翌1615(慶長20)年、徳川方は再び難癖をつけて兵を挙げ(大坂夏の陣)、ついに豊臣氏を滅亡へと追い込むこととなる。大坂冬の陣は、200年以上にわたる徳川の天下泰平(元和偃武)を決定づける最後の試練の幕開けとして、極めて重要な歴史的意義を持っている。