三宅雪嶺 (みやけせつれい)
【概説】
明治から昭和期にかけて活躍した哲学者、言論人。志賀重昂らとともに政教社を設立して雑誌『日本人』を創刊し、明治政府の極端な欧化政策に対抗して国粋保存主義を唱えた近代日本の代表的な思想家。
政教社の結成と国粋保存主義の提唱
明治中期の日本は、井上馨外相らによる条約改正交渉を有利に進めるため、鹿鳴館に象徴される極端な欧化主義政策をとっていた。これに対して、日本の伝統文化や歴史的個性が失われることを危惧した三宅雪嶺は、1888(明治21)年に志賀重昂や杉浦重剛らとともに言論団体である政教社を結成し、機関誌『日本人』を創刊した。
彼らが主張した国粋保存主義は、単なる盲目的な排外主義や復古主義とは一線を画していた。それは、西洋文明の優れた点を受容しつつも、日本独自の個性や長所(「国粋」)を自覚的に維持・発展させ、世界の進歩に貢献すべきであるという、主体的かつ近代的なナショナリズムであった。雪嶺はベストセラーとなった著作『真善美日本人』および『偽悪醜日本人』において、日本人の長所と短所を客観的に鋭く分析し、近代国家としての日本のあるべき姿を指し示した。
言論界における影響と後半生の軌跡
雪嶺は終生にわたり、権力から独立した自由なジャーナリストの立場を貫いた。明治後期の日露戦争期には、対露強硬派として活動する一方で、大正期には大正デモクラシーの潮流を支持し、言論の自由や民主主義的な改革を擁護した。1923(大正12)年には独自の総合雑誌『我観』を創刊し、学術から時事評論まで幅広い分野で活発な執筆活動を展開した。
1943(昭和18)年には言論界・学術界への多大な貢献が認められ、言論人としては極めて異例の文化勲章を受章した。敗戦直後の1945年11月に85歳で没するまで、政府の政策を時に鋭く批判し続けた雪嶺の生涯は、日本の近代言論史における独立不羈の精神を体現するものであった。