古事記伝
【概説】
江戸時代中期から後期にかけて、国学者の本居宣長が約35年の歳月を費やして完成させた『古事記』の本格的な注釈書。全44巻からなる。厳密な実証的文献考証によって古代日本語を解読し、国学を大成させる理論的支柱となった。
執筆の契機と「松坂の一夜」
江戸時代中期の国学者である本居宣長は、京都で医学や儒学を学ぶ傍らで契沖の著作に触れ、日本の古典研究に志を抱くようになった。彼が『古事記』の研究に生涯を捧げる直接の契機となったのは、宝暦13年(1763年)の賀茂真淵との運命的な出会いである。伊勢参宮の途上にあった真淵が宣長の住む松坂の宿に立ち寄った際、宣長は真淵を訪問し、入門を請うた。世にいう「松坂の一夜」である。この時、古代精神の解明を目指して『万葉集』の研究に心血を注いでいた真淵は、さらに時代を遡る『古事記』研究の重要性を説き、その困難な大業を若き宣長に託した。
三十五年に及ぶ実証的研究の軌跡
真淵との出会いの翌年である明和元年(1764年)、宣長は『古事記伝』の執筆を開始した。当時の『古事記』は漢字の音訓を複雑に交えた変体漢文で記述されており、正確に読み解くことは極めて困難であった。宣長は、厳密な言語学的・文献学的アプローチによって古代日本語の仮名遣いや語彙を一つ一つ考証するという、気の遠くなるような作業を続けた。寛政10年(1798年)、宣長が69歳の時に全44巻がついに脱稿し、実に約35年の歳月を経て完成を見たのである。この精緻な文献批判の手法は、近世の実証主義的学問の到達点を示すものであった。
「漢意」の排斥と「惟神の道」の探求
『古事記伝』の最大の歴史的意義は、単なる語学的な注釈にとどまらず、日本独自の思想的アイデンティティを確立した点にある。それまで古代史の根本史料としては、漢文体で論理的に記された正史『日本書紀』が重んじられていた。しかし宣長は、『日本書紀』には儒教的な作為や中華思想、すなわち外来の論理的思考である「漢意(からごころ)」が混入していると批判した。そして、古代日本人の純粋な精神や感情(まごころ)を知るためには、日本固有の古言(ふるごと)を留めている『古事記』こそが至高の史料であると位置づけたのである。ここにおいて、理屈を排して神々の振る舞いをありのままに肯定する「惟神の道(かんながらのみち)」という神道観が提唱され、国学の理論的体系が大成された。
国学の思想的展開と後世への影響
宣長によって『古事記伝』に結実した思想は、江戸時代後期の社会に多大な影響を与えた。宣長の死後、その「惟神の道」の思想は平田篤胤らによって継承され、より宗教的・実践的な復古神道へと発展していくこととなる。さらに、外国船の接近によって対外的な危機感が高まる幕末期においては、「日本独自の優れた道」を尊ぶ国学の思想が、外圧に対抗するイデオロギーへと変容した。このように『古事記伝』が提示した古代精神への回帰は、尊王攘夷運動の精神的支柱となり、ひいては明治維新を推進する歴史的エネルギーの源泉ともなったのである。