塙保己一 (はなわほきいち)
【概説】
江戸時代後期に活躍し、日本の古典籍の収集・編纂に生涯を捧げた盲目の国学者。幼少期に失明しながらも類稀なる記憶力と努力で学問を修め、幕府の助成を受けて和学講談所を設立した。日本古来の貴重な文献を網羅した一大叢書『群書類従』を編纂し、散逸の危機にあった数多くの歴史資料や文学作品を後世に伝えるという、日本文化史における多大な貢献を果たした。
失明と学問への並外れた情熱
武蔵国児玉郡の農家に生まれた塙保己一は、7歳で病により失明した。15歳で江戸に出て、盲人の特権的同業者組合(ギルド)である当道座に入り、雨富検校に弟子入りした。しかし、盲人の本来の生業とされていた音曲や鍼灸などには一向に上達せず、一方で学問に対する強い志向と才能の片鱗を見せた。師の理解もあって学問の道を許された保己一は、萩原宗固に和歌を学び、さらに江戸派の国学の大成者である賀茂真淵に入門して国学や古典を学んだ。目が見えない彼は、人に書物を読み上げさせてはそれをすべて暗記するという方法で学び、その驚異的な記憶力と探究心によって頭の中に膨大な知識の図書館を築き上げていったのである。
幕府の庇護と「和学講談所」の設立
江戸時代の中期から後期にかけては、本居宣長らによる国学の隆盛や、水戸学による修史事業の進展など、日本の古典や歴史を実証的に再評価する機運が高まっていた時代であった。保己一は、全国各地の寺社や公家、大名家などに眠る貴重な古書が、火災や虫損などによって散逸・滅失していく現状を深く憂い、これらを収集・編纂して出版する一大叢書の刊行を立案した。
この壮大な計画は、文教政策を重視していた老中・松平定信の目に留まった。寛政の改革において学問の振興を図っていた幕府の支援を受けた保己一は、1793年、江戸に和学講談所を設立した。ここは単なる教育機関ではなく、幕府公認の国史・国文学の研究所および出版局としての機能を果たし、保己一の事業は国家的なプロジェクトへと昇華したのである。
『群書類従』の編纂とその歴史的意義
和学講談所を拠点として、保己一は全国から貴重な書物を借用・書写し、内容を厳密に校訂する作業を進めた。盲目の彼は複数の門人に異なる異本を読み上げさせ、自らの記憶にある知識と照合しながら一言一句の誤りを正すという超人的な手法をとった。こうして41年もの歳月を費やし、1819年に全666冊からなる『群書類従』(正編)を完成させた。この一大叢書には、神祇、帝王、文筆、和歌、合戦など25部門に分類された古代から近世初期に至る文献が収録されており、もし保己一の編纂事業がなければ永遠に失われていたかもしれない史料が数多く含まれている。また、彼は出版にあたって版木を彫らせる方式(木版印刷)を採用し、後世の再版を容易にした点でも先見の明があった。
実証的国学の確立と後世への影響
同時代の国学である本居宣長や平田篤胤の学問が、古代の精神性や「古道」の解明といった思想的・宗教的側面を強めていったのに対し、保己一の学問は徹底して「文献の収集・保存と実証的考証」という客観的な側面に重きを置いていた。彼は自らの思想や解釈を語るよりも、後世の学者が研究を行うための「確固たる基礎史料(インフラ)」を残すことに心血を注いだといえる。
その後も『続群書類従』などの編纂が門人たちに引き継がれ、彼が作らせた1万7千枚以上に及ぶ版木は現在も温故学会に保存され、国の重要文化財に指定されている。明治維新以降、日本の歴史学や国文学が近代的な学問として飛躍的な発展を遂げた背景には、塙保己一という一人の盲目の学者の凄まじい執念と、彼が遺した巨大な知的遺産が存在しているのである。