法勝寺 (ほうしょうじ)
【概説】
白河天皇の御願によって平安京東郊の白河(現在の京都市左京区岡崎)に建立された、院政期を代表する巨大寺院。歴代の天皇や中宮が建立した「六勝寺」の筆頭であり、かつては高さ80メートルに及ぶ巨大な八角九重塔がそびえ立っていたことで知られる。天皇家主導の仏教信仰の隆盛と、専制的な院政の権力を視覚的に象徴する記念碑的建造物である。
院政期の幕開けと「六勝寺」の首座
法勝寺の建立が開始されたのは1076年(承暦元年)、白河天皇が自身の発願(御願)による寺院の造営を命じたことに始まる。翌1077年に金堂などが完成し、盛大な落慶供養が行われた。この地(白河)は平安京の鴨川東岸に位置し、かつて藤原良房の別業(別荘)があった場所であり、藤原氏の栄華の象徴である法成寺(藤原道長建立)に対抗する形で造営が進められた。
白河天皇がのちに院政を開始すると、この白河の地は政治・文化の中心地(白河泉殿など)となり、法勝寺を筆頭として「勝」の字を冠する5つの御願寺(尊勝寺、最勝寺、円勝寺、成勝寺、延勝寺)が次々と建立された。これらは総称して六勝寺(ろくしょうじ/りくしょうじ)と呼ばれ、摂関家に代わって政治の実権を握った天皇家(治天の君)の絶対的な権力を、国内外に誇示する舞台装置として機能したのである。
権力の象徴「八角九重塔」と受領の奉仕
法勝寺の境内において、最も人々の目を引いたのが池の中島に建てられた八角九重塔である。この塔は高さが約80メートル(約27丈)に達したとされ、木造建築としては日本史上最大級のものであった。平安京の市街地や周辺の街道からもその壮麗な姿を望むことができ、京都にアプローチする人々に対して、白河上皇の権威を視覚的に植え付ける強烈なインパクトを持っていた。
このような巨大寺院の造営を支えたのは、受領(国司)として富を蓄積した地方官たちであった。彼らは上皇に取り入って官職(成功や重任)を得るため、競って造営の費用や資材を献上した。法勝寺の建立と維持は、院政期における新たな経済構造と、受領たちの奉仕システムを如実に示す歴史的事象であるといえる。
相次ぐ災害と廃絶への道
法勝寺は落慶以降、院政期を通じて国家的な加持祈祷や仏教儀礼の中心地として栄えたが、その巨体ゆえに災害の標的ともなった。1081年(応徳元年)には八角九重塔が落雷によって焼失し、その後再建されたものの、鎌倉時代の1208年(承元2年)にも再び落雷で焼失している。そのたびに朝廷や幕府の手によって再建が試みられたが、鎌倉時代後期以降は天皇家の財政基盤の弱体化とともに衰退へと向かった。
さらに1225年(嘉禄元年)の大風や、1234年(天福2年)の火災、そして室町時代の応仁の乱(1467年〜1477年)による兵火に巻き込まれたことで、法勝寺は完全に荒廃した。現在は京都市動物園の敷地周辺にその遺構が眠っており、近年の発掘調査によって八角九重塔の基壇や瓦などの遺物が確認され、当時の圧倒的なスケールが考古学の面からも証明されている。