語呂合わせ:ヘッドロックよ取っ組み合い(ロックよ→(1)694年、取っ組み合い→十組問屋)

十組問屋 (とくみどんや/といや)
【概説】
江戸時代中期の1694年(元禄7年)に、大坂からの下り荷を輸送する菱垣廻船の海難事故による損害を共同補償するために結成された江戸の問屋仲間の連合組織。大坂側の二十四組問屋と提携して上方から江戸への太い流通ルートを確立し、後に幕府の公認を得て市場を独占したが、樽廻船との競争や天保の改革による株仲間解散令によって衰退した。
上方依存の江戸経済と菱垣廻船の「海損」問題
江戸時代、巨大な消費都市へと成長した江戸の経済は、経済先進地である上方(大坂や京都)で生産される日用品や食料品に大きく依存しており、これらは「下り荷(くだりに)」と呼ばれて珍重された。この大量の物資を大坂から江戸へと海上輸送する主力となったのが菱垣廻船(ひがきかいせん)である。
しかし、当時の航海技術では遠州灘などの難所において海難事故が頻発した。嵐に遭遇した際、船を守るために積荷の一部を海に投棄すること(打ち荷)があったが、どの問屋の荷物を捨てたかによって損害の不均衡が生じ、荷主である江戸の問屋間や船頭との間で激しい紛争(海損トラブル)が絶えなかったのである。
十組問屋の結成と共同補償システムの確立
こうした海難トラブルを解決するため、1694年(元禄7年)、江戸の主要な問屋たちが業種ごとに塗物、釘鉄、綿、薬種、紙、酒店などの10のグループ(組)に分かれ、連合組織を結成した。これが十組問屋(とくみどんや)である。
十組問屋の最大の目的は、海難による積荷の損害を特定の荷主に押し付けるのではなく、加入している問屋全体で荷物の価格に応じて公平に分担し合う共同補償システム(平均立・へいきんだて)を確立することにあった。これにより、個々の問屋が抱える倒産リスクが大幅に軽減され、安全かつ安定的な海上輸送と商品取引が可能となったのである。
大坂・二十四組問屋との連携による流通独占
江戸での十組問屋結成に呼応する形で、荷物の発送元である大坂においても、同様の連合組織である二十四組問屋(にじゅうしくみどんや)が結成された。江戸の十組問屋と大坂の二十四組問屋は固く提携し、菱垣廻船を両者の専属の輸送船とした。
この強力なカルテルによって、非加入の商人は菱垣廻船を利用できなくなり、十組問屋は上方から江戸への流通ルートを事実上掌握した。その後、享保の改革期などにおいて幕府から正式に株仲間としての公認(公権力による保護)を受けると、十組問屋は江戸の流通市場における特権的な独占体制を完成させ、莫大な富を蓄積していった。
樽廻船の台頭と天保の改革による解体
しかし、十組問屋と菱垣廻船の絶対的な支配は永遠には続かなかった。やがて、伊丹や灘の酒を専用に運ぶ樽廻船(たるかいせん)が台頭してくる。樽廻船は菱垣廻船よりも船体が深く、スピードが速いうえに運賃も安かったため、次第に酒以外の一般物資も運ぶようになり、十組問屋側と激しい集荷競争(積荷争い)を繰り広げた。結果的に菱垣廻船は樽廻船に太刀打ちできず、衰退を余儀なくされていく。
さらに1841年(天保12年)、老中・水野忠邦が主導した天保の改革において、諸物価高騰の元凶は問屋仲間による流通独占にあるとみなされ、株仲間解散令が発布された。これにより十組問屋は強制的に解散させられ、特権を剥奪された。水野の失脚後、1851年(嘉永4年)に株仲間は再興を許されたものの、かつてのような強力な独占的統制力を取り戻すことはできず、江戸時代の終焉とともに歴史的役割を終えることとなった。