水野忠邦
【概説】
江戸時代後期の幕閣で、12代将軍徳川家慶のもとで老中首座となり、天保の改革を主導した人物。内憂外患の危機に対応するため幕府権力の強化と財政再建を目指して強権的な政策を推し進めたが、上知令の失敗などにより短期間で失脚した。
幕政参画への並々ならぬ野望
水野忠邦は、肥前国唐津藩主・水野忠光の次男として生まれた。唐津藩は長崎警備の重任を負わされており、その負担ゆえに藩主が幕政の中枢(老中など)に就くことは慣例として困難であった。そこで忠邦は、自らの幕政参画という野望を叶えるため、実収入の大幅な減少を承知の上で、遠江国浜松藩への転封を幕府に激しく働きかけ、見事に実現させた。その後は寺社奉行、京都所司代、大坂城代といった幕府の要職を順調に歴任し、1828年に西の丸老中、1834年には本丸老中となり、幕閣における確固たる地位を築き上げていった。
内憂外患の危機と天保の改革の断行
忠邦が老中に就任した当時の日本は、まさに「内憂外患」の危機的状況にあった。国内では11代将軍徳川家斉の「大御所時代」による賄賂政治や風紀の弛緩により幕府財政が極度に悪化し、天保の飢饉を背景に大塩平八郎の乱(1837年)が勃発するなど、幕府の権威は大きく揺らいでいた。対外的には異国船の接近が相次ぎ、1840年に清国がイギリスに大敗したアヘン戦争の衝撃的な知らせが日本にもたらされ、従来の海防政策の根本的な見直しが迫られていた。
1841年、大御所・家斉が死去すると、忠邦は12代将軍徳川家慶の厚い信任を背景に老中首座となり、ついに天保の改革に着手する。彼は享保・寛政の改革を理想に掲げ、大御所時代の側近たちを次々と粛清して幕政の刷新を図った。
強権的な経済・社会統制
天保の改革において、忠邦は極めて強権的な政策を矢継ぎ早に打ち出した。厳しい倹約令を発して庶民の風俗を厳しく統制し、為永春水の人情本や柳亭種彦の合巻などを弾圧したほか、江戸市中に点在していた歌舞伎三座を浅草猿若町へ強制移転させた。また、都市への人口流入を防ぎ、農村の荒廃を食い止めるために人返しの法を発布し、江戸に流入していた農民を強制的に帰郷させようとした。
経済政策としては、物価高騰の原因を特権商人の独占によるものと断定し、株仲間の解散を命じた。しかし、これはかえって商品流通のネットワークを破壊する結果を招き、深刻な不況と物価の混乱を引き起こした。一方で対外政策においては、アヘン戦争の教訓から従来の異国船打払令を緩和し、1842年に天保の薪水給与令を出して、漂着した外国船に対して燃料や食料の提供を認めるという現実的な対応を見せている。
上知令の失敗と改革の挫折がもたらした歴史的意義
改革の仕上げとして、忠邦は1843年に上知令(あげちれい)を発布する。これは江戸および大坂周辺の約50万石の私領(大名・旗本領)を幕府の直轄領(天領)に編入し、幕府の軍事的・経済的基盤を抜本的に強化しようとする大計画であった。しかし、この法令は領地を奪われる大名や旗本のみならず、長年の結びつきを断ち切られる農民や商人からも激しい反発を招き、将軍・家慶からも支持を得られず、わずか数ヶ月で撤回に追い込まれた。
上知令の挫折により求心力を失った忠邦は、同年のうちに老中首座を罷免され失脚した。のちに外交処理のために一時的に老中に復帰するものの、かつての権勢を取り戻すことはできず、失意のうちに生涯を閉じた。水野忠邦が主導した天保の改革の失敗は、幕府の統制力がすでに商品貨幣経済の発展や社会の実態に適合しなくなっていることを白日の下に晒した。結果として幕府の権威は失墜し、雄藩の台頭を許すこととなり、時代は大きく幕末へと傾斜していくこととなる。