北路

高校日本史的重要度
★★

【参考リンク】

北路(遣唐使) (ほくろ)

7世紀前半〜中頃

【概説】
初期の遣唐使が主に利用した、対馬から朝鮮半島の西岸に沿って航行し、山東半島などに至る航路。常に陸地を目視しながら進むことができるため、当時の航海技術においては最も安全なルートであったが、朝鮮半島の国際情勢の変化に伴い利用できなくなった。

初期の対外交流を支えた安全な沿岸航路

飛鳥時代から奈良時代にかけて、日本は先進的な制度や文化を吸収するために唐へ使節を派遣した。630年(舒明天皇2年)の第1回遣唐使犬上御田鍬ら)から7世紀中頃にかけて利用されたのが、この北路である。難波を出発し、瀬戸内海を経て筑紫(大宰府)へ至った後、壱岐・対馬を経て海を渡り、朝鮮半島の西岸(百済などの沿岸)を北上して、遼東半島山東半島の登州などに上陸するというルートであった。

当時の日本は造船技術や航海術が未発達であり、羅針盤なども存在しなかった。そのため、外洋を横断することは極めて危険であり、可能な限り陸地に沿って航行することが求められた。北路は沿岸部を伝って進むため、嵐に遭遇した際の避難や水・食料の補給が容易であり、遭難のリスクを最小限に抑えることができる合理的な航路であった。

白村江の戦いと国際情勢の激変によるルート変更

しかし、北路の安全な利用には、経由地である朝鮮半島の国家との良好な関係が不可欠であった。7世紀中頃、朝鮮半島では高句麗百済新羅が激しく対立しており、660年に百済が唐・新羅の連合軍によって滅ぼされると、日本は百済復興を支援するために出兵した。だが、663年の白村江の戦いにおいて、日本・百済遺民の連合軍は唐・新羅の連合軍に大敗を喫してしまう。

この敗戦によって日本は朝鮮半島における足場を完全に失い、その後半島を統一した新羅との関係も緊張状態に陥った。敵対国の沿岸を航行することは不可能となり、日本は安全な北路を放棄せざるを得なくなったのである。これ以降の遣唐使は、九州南部から薩南諸島を経て東シナ海を渡る「南島路」や、五島列島から東シナ海を一気に横断する「南路」といった、極めて危険な外洋航路への変更を余儀なくされた。北路が使えなくなったことは、その後の遣唐使の遭難率を劇的に引き上げる要因となり、日本の対外交流史における大きな転換点となった。

最終更新:
2026年8月6日 @ 20:52

日本史一問一答(ランダム)

Q. 均田制の実施や反射炉の築造による大砲鋳造など、肥前藩(佐賀藩)の藩政改革と近代化を成功させた藩主は誰か?
Q. 相州派の刀工で、地鉄が硬く美しい独特の作風を完成させ、日本刀の最高峰の刀工として後世に神格化された人物は誰か?
Q. 加藤弘之がかつての天賦人権説を否定し、進化論的立場(社会ダーウィニズム)から新たな国家観を論じた著書は何か?