労働組合期成会 (ろうどうくみあいきせいかい)
【概説】
1897年(明治30年)、高野房太郎や片山潜らによって職工義友会を改組して設立された、日本初の本格的な労働運動啓蒙・指導団体。鉄工組合や日本鉄道矯正会など近代的な労働組合を次々と誕生させ、日本の労働運動の出発点となった。共済活動を基盤とする穏健な運動を展開したが、1900年の治安警察法制定による弾圧で衰退・解散した。
日清戦争後の資本主義発達と結成の背景
日清戦争(1894〜1895年)前後、日本では軽工業を中心に産業革命が進展し、資本主義が急速に発達した。しかし、その裏側で労働者は低賃金・長時間労働といった極めて劣悪な労働環境に置かれ、労働問題が深刻化しつつあった。こうした中、アメリカに渡ってアメリカ労働総同盟(AFL)などの近代的な労働運動やサミュエル・ゴンパーズの思想を学んだ高野房太郎(たかのふさたろう)や城常太郎らが帰国した。彼らは、アメリカ帰りのキリスト教社会主義者である片山潜(かたやません)らと合流し、1897年(明治30年)4月に労働組合結成の準備団体として「職工義友会」を結成した。そして同年7月、これをさらに発展・改組する形で労働組合期成会が正式に発足したのである。
啓蒙活動と近代的な労働組合の誕生
労働組合期成会は、労働者の地位向上と権利保護を目的とし、各地で演説会を開いて労働組合の必要性を説いた。また、片山潜を主筆として機関紙『労働世界』を創刊し、労働問題の啓蒙に大きく貢献した。彼らの運動方針は、急進的な階級闘争ではなく、労働者同士の相互扶助(共済活動)を重んじる穏健なものであった。
同会の指導と支援により、1897年12月には日本初の近代的な労働組合である鉄工組合が結成された。さらに翌1898年には、日本鉄道会社の機関士らによる日本鉄道矯正会や、活版工組合などが次々と誕生した。日本鉄道矯正会は同年、待遇改善を求めて日本初のストライキを成功させるなど、日本の労働運動は労働組合期成会を軸として一時的な高揚期を迎えた。
治安警察法の制定と組織の崩壊
労働運動の広がりに対し、資本家や政府は強い警戒感を抱くようになった。特にストライキが頻発するようになると、政府はこれを抑え込むため、1900年(明治33年)に治安警察法を制定した。この法律の第17条は、労働者の団結権やストライキの誘引・教唆を厳しく罰するものであり、実質的に労働運動を非合法化する性格を持っていた。
合法かつ穏健な共済活動を旨としていた労働組合期成会にとって、この弾圧法規の打撃は致命的であった。ストライキ等の実力行使が封じられたことで労働組合は無力化し、組合員は激減した。結果として期成会は運動を継続することが困難となり、翌1901年(明治34年)には事実上の解散へと追い込まれた。
歴史的意義と後世への影響
労働組合期成会の活動期間はわずか数年であったが、その歴史的意義は極めて大きい。それまでの暴動や自然発生的な争議とは異なり、近代的な組織論と理論に基づいた日本の労働運動の「出発点」となったからである。また、期成会に参加した片山潜や幸徳秋水らは、労働運動の限界を感じたことから社会主義へと傾倒し、1901年の社会民主党結成へと連なっていく。さらに、期成会が掲げた「労働者の相互扶助・共済」という理念は、大正時代に鈴木文治が設立した友愛会へと受け継がれ、その後の日本労働運動の大きな伏流水となったのである。