千早城 (ちはやじょう)
1332年〜1333年
【概説】
河内国金剛山地に楠木正成が築いた、鎌倉時代末期の代表的な山城。1333年の千早城の戦いにおいて、少数の楠木軍が幕府の大軍を奇策で長期間引き止め、全国的な倒幕運動を誘発する契機となった要害である。
天然の要害と正成の奇策
千早城は、先に落城した赤坂城(下赤坂城・上赤坂城)の背後に位置する金剛山の尾根に築かれた。三方を深い谷に囲まれた険峻な地形を利用した、難攻不落の山城である。1333年(元弘3年)、後醍醐天皇の配下として挙兵した楠木正成は、押し寄せる幕府の大軍に対し、徹底した籠城戦を展開した。正成は、崖を登る敵軍に対して大木や巨石を投げ落とし、熱湯や糞尿を浴びせ、さらには「藁人形」に甲冑を着せて敵の放つ矢を回収するなど、数々の奇策(ゲリラ戦術)を用いて幕府軍を翻弄し続けた。
倒幕の連鎖と歴史的意義
千早城の戦いがもたらした歴史的影響は極めて大きい。圧倒的な兵力差がありながら、一地方の土豪に過ぎない楠木氏を攻略できない幕府軍の無策ぶりは、鎌倉幕府の軍事的権威を完全に失墜させた。これにより、全国の反幕府勢力が一斉に蜂起することとなる。播磨の赤松円心の挙兵に続き、幕府の有力御家人であった足利高氏(尊氏)が京都の六波羅探題を、新田義貞が鎌倉を攻略し、最終的に鎌倉幕府は滅亡へと追い込まれた。千早城での徹底抗戦は、その後の建武の新政、そして室町幕府の誕生へとつながる動乱の幕開けとなったのである。