共和演説事件
【概説】
1898年(明治31年)8月、第1次大隈重信内閣(隈板内閣)の文部大臣であった尾崎行雄が、演説の中で「日本が仮に共和政治であったなら」という仮定の表現を用いたことで不敬であると攻撃され、辞任に追い込まれた政治事件。
後任人事をめぐって与党・憲政党の内部対立が爆発し、日本初の政党内閣がわずか4ヶ月で崩壊する直接の引き金となった。
拝金主義を批判した演説と「共和政治」の仮定
1898年(明治31年)6月、自由党と進歩党が合同して結成された憲政党を基盤として、大隈重信を首相、板垣退助を内相とする日本初の政党内閣である第1次大隈内閣(隈板内閣)が誕生した。この内閣において、旧進歩党系の有力政治家であった尾崎行雄は文部大臣として入閣を果たした。
同年8月21日、尾崎文相は帝国教育会の茶話会において演説を行い、当時の日本社会に蔓延していた拝金主義(金銭万能主義)の風潮を厳しく批判した。その際、尾崎は「アメリカのような共和政治の国では金持ちが大統領になることはないが、もし日本に仮に共和政治があるという夢を見たと仮定したならば、恐らく三井や三菱が大統領の候補者になるであろう」という旨の比喩を用いた。これはあくまで当時の拝金主義を戒めるための修辞的な仮定の話であり、共和制を賛美したり導入を主張したりする意図は全くなかった。
藩閥勢力と党内反対派による「不敬」攻撃
しかし、この演説の内容が新聞で報じられると、政党内閣の誕生に強い危機感を抱いていた山県有朋ら藩閥勢力や貴族院の保守派は、政権打倒の絶好の口実としてこれに飛びついた。「万世一系の天皇が統治する日本において、仮定であっても共和政治を口にするとは国体を否定する不敬極まりない言動である」として、尾崎に対する激しい糾弾キャンペーンが展開されたのである。
さらに事態を複雑にしたのは、与党である憲政党内部の派閥抗争であった。憲政党は藩閥に対抗するために急조された政党であり、内部では大隈を中心とする旧進歩党系と、板垣や星亨を中心とする旧自由党系が閣僚ポストや主導権をめぐって激しく対立していた。旧自由党系はこの機に乗じて旧進歩党系の勢力を削ごうと画策し、藩閥勢力に同調して尾崎文相の辞任を強く迫った。こうして内外から袋叩きに遭った尾崎は、同年10月、ついに文部大臣の辞職を余儀なくされた。
後任人事をめぐる憲政党の分裂と隈板内閣の崩壊
尾崎の辞任は事件の決着とはならず、かえって政権崩壊へと直結する致命的な対立を引き起こした。後任の文部大臣の座をめぐり、板垣ら旧自由党系が自派からの登用を要求したのに対し、大隈首相はこれを退け、尾崎と同じ旧進歩党系の犬養毅を独断で後任の文相に任命したのである。
この人事は旧自由党系の猛烈な反発を招き、星亨らは実力行使によって既存の憲政党を解散させた上で、旧自由党系議員のみによる新たな「憲政党」を立ち上げた。一方、締め出された旧進歩党系も「憲政本党」を結成して対抗し、政権与党は完全に真っ二つに分裂した。党の統一を失った大隈内閣は閣内不一致により総辞職に追い込まれ、日本初の政党内閣は成立からわずか4ヶ月あまりで呆気なく幕を閉じた。共和演説事件は、大日本帝国憲法下において「天皇(国体)」という言葉がいかに強力な政争の道具として機能したかを示すとともに、草創期の政党がいまだ藩閥勢力に対抗しうる強固な結束を持たなかった限界を露呈した事件として、近代政治史上の重要な転換点となった。