政党内閣

議会の多数党の党首が首相となり、政党員を中心に内閣を組織して、議会の信任を背景に政治を行う仕組みを何というか?
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政党内閣

【概説】
議会(衆議院)において多数議席を占める政党の党首が内閣総理大臣となり、閣僚の過半数をその党の所属議員で構成する内閣。日本では明治時代の藩閥政治への批判から生まれ、大正デモクラシーを背景に本格的な運用が開始された。やがて二大政党による政権交代の慣行である「憲政の常道」が確立したが、昭和初期の軍部台頭によって崩壊した。

藩閥政治からの脱却と初期の試み

明治憲法体制の初期、政府は政党の動向に左右されずに政策を行うとする超然主義をとり、薩長出身者を中心とする藩閥内閣が続いていた。しかし、初期議会において予算案をめぐり政党側(民党)の激しい抵抗に直面すると、政府も次第に政党との妥協を余儀なくされていった。日清戦争後には、政府と政党の提携が常態化し、政党内閣実現への土壌が形成され始めた。

1898(明治31)年、自由党と進歩党が合同して憲政党が結成されると、第3次伊藤博文内閣は退陣し、憲政党を基盤とする第1次大隈重信内閣が成立した。首相の大隈重信と内務大臣の板垣退助の名をとって隈板内閣(わいはんないかく)と呼ばれるこの内閣は、陸海軍大臣を除く全閣僚が政党員で占められた日本初の政党内閣であった。しかし、旧両党間の内部対立や尾崎行雄文部大臣の共和演説事件などが原因で、わずか4ヶ月で崩壊した。その後、伊藤博文自らが立憲政友会を創設するなど、政党は国家運営において不可欠な存在へと成長していく。

本格的政党内閣の誕生

大正時代に入ると、第一次護憲運動などを経て民主主義を求める大正デモクラシーの機運が高まった。1918(大正7)年、米騒動の責任をとって寺内正毅内閣が総辞職すると、立憲政友会総裁の原敬が組閣を命じられた。

原内閣は、陸・海軍および外務大臣を除く全閣僚を政友会党員で固め、衆議院の多数党が政権を担うという形態を明確にした。原敬は爵位を持たない衆議院議員であったため「平民宰相」として国民から熱狂的な支持を迎え、これが日本における本格的政党内閣の始まりと評価されている。原内閣のもとで高等教育機関の拡充や交通網の整備など積極的な政策が推し進められた。

「憲政の常道」の確立と終焉

1924(大正13)年、第二次護憲運動によって成立した加藤高明内閣(護憲三派内閣)以降、衆議院の第一党の党首が内閣を組織し、行き詰まれば野党の第一党に政権を譲るという二大政党(立憲政友会と憲政会、のちの立憲民政党)による政権交代の慣行が定着した。これは憲政の常道と呼ばれ、1925(大正14)年の普通選挙法成立とともに日本の議会政治の黄金期を現出させた。

しかし、昭和恐慌による深刻な経済危機や、相次ぐ政党の汚職事件によって国民の政党政治に対する失望が広がりを見せた。さらに満州事変など軍部の独走が顕著になる中、1932(昭和7)年に海軍青年将校らによって犬養毅首相が暗殺される五・一五事件が勃発した。これにより、後継首相に海軍大将の斎藤実が就任して挙国一致内閣が成立し、約8年間続いた政党内閣の時代は終焉を迎えたのである。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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