作人

高校日本史的重要度

【参考リンク】

作人 (さくにん)

平安時代〜中世

【概説】
平安後期から中世の荘園公領制下において、名主(みょうしゅ)の支配のもとで実際に土地の耕作を行った農民。領主に対して納税義務を負う名主に代わり、直接の生産活動を担った実質的な耕作者である。

名田の成立と名主・作人の関係

律令制下の公地公民制が完全に形骸化した平安時代後期、地方支配の現場では「名田(みょうでん)」と呼ばれる課税単位が編成された。国衙(官省)や荘園領主から名田の経営を請け負い、年貢公事などの納税義務を負ったのが名主(みょうしゅ)である。しかし、名主がすべての上田・下田を直接耕作することは困難であったため、その一部を支配下の農民に貸し与えて耕作を委ねた。この時、実際に田畑に入って鍬を振るった直接生産者が作人である。作人は名主に対して、小作料に相当する加地子(かじし)を支払うことで耕作を維持した。

作手職の誕生と歴史的意義

初期の作人は名主に対して人格的・経済的に強く隷属し、不安定な立場に置かれていた。しかし、鎌倉時代へと時代が進み、農業生産力が向上するにつれて、作人は自らの耕作権を主張し始める。この作人の持つ永続的な耕作権利は「作手(さくて)」または「作手職(さくてしき)」と呼ばれ、名主の土地所有権(名主職)とは異なる独立した権利として認められるようになった。作手職は次第に売買や譲渡、遺産の対象となり、土地に対する権利が「領主・名主・作人」の間で重層的に存在する、日本中世独特の土地制度(職の体系)を形成する重要な一端を担った。

最終更新:
2026年6月16日 @ 06:39

日本史一問一答(ランダム)

Q. 「宝暦の改革」と呼ばれる厳しい財政再建を行い、人材育成のために藩校「時習館」を創設した熊本藩主は誰か?
Q. 足利尊氏の挙兵に呼応して上野国(群馬県)で挙兵し、分倍河原の戦いなどを経て鎌倉に攻め入り、北条氏を滅ぼした武将は誰か?
Q. 大隈重信が条約改正交渉で外国人判事の任用を譲歩したことに激怒し、1889年に大隈に爆弾を投げて重傷を負わせた玄洋社の青年は誰か?