立憲国民党

犬養毅が率い、立憲政友会の尾崎行雄らとともに第一次護憲運動を牽引して第3次桂内閣を退陣に追い込んだ政党は何か?
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立憲国民党

1910年〜1922年

【概説】
明治末期から大正時代にかけて存在した日本の政党。1910年(明治43年)に憲政本党などを中心に結成され、第一次護憲運動において「閥族打破・憲政擁護」を掲げて大きな役割を果たした。党首の犬養毅らが中心となって桂内閣を厳しく追及し、大正デモクラシーの端緒を開いた政党として日本政治史において重要な位置を占める。

結党の背景と非政友会勢力の結集

明治時代後期の日本政界は、伊藤博文の系譜を引く立憲政友会と、山県有朋を後ろ盾とする桂太郎ら藩閥官僚勢力が、妥協と対立を繰り返しながら政権を交代する「桂園時代」であった。この体制下で野党勢力は弱体化していたが、政界再編の機運が高まる中、1910年(明治43年)に大隈重信の立憲改進党の流れを汲む憲政本党を中心として、戊申倶楽部などの非政友会諸派が合同し、立憲国民党が結成された。犬養毅、大石正巳、島田三郎らが中心となり、衆議院で立憲政友会に次ぐ第二党の勢力を誇った。

第一次護憲運動と大正政変の主導

1912年(大正元年)末、第2次西園寺公望内閣が陸軍の「二個師団増設要求」を拒否したことで陸軍大臣が辞表を提出し、内閣が総辞職する事態となった。その後継として、長州閥の重鎮であった桂太郎が第3次内閣を組織すると、藩閥の横暴に対する批判が国民の間に沸き起こった。立憲国民党は党首の犬養毅を中心に、立憲政友会の尾崎行雄らとともに「閥族打破・憲政擁護」をスローガンに掲げ、第一次護憲運動を展開した。彼らは帝国議会において桂内閣を痛烈に批判・追及し、これに呼応して立ち上がった数万の民衆が国会議事堂を包囲するなど、運動は全国的な大衆運動へと発展した。結果として、桂内閣は組閣からわずか53日で退陣に追い込まれ(大正政変)、立憲国民党はこの歴史的出来事の原動力となった。

桂新党による切り崩しと党の分裂

第一次護憲運動の最中、議会と民衆からの猛烈な反対に直面した桂太郎は、自らの支持基盤となる新党の結成を画策した。この際、立憲国民党の内部から大石正巳や島田三郎ら、所属議員の約半数にあたる保守派の議員が桂の誘いに応じ、脱党して桂新党(後の立憲同志会)へと合流する事態が発生した。この大規模な引き抜き工作により、立憲国民党は衆議院における議席を大幅に減らし、大政党から一転して小政党へと転落した。しかし、これによって党内は純化され、以後の立憲国民党は犬養毅の強力なリーダーシップの下、妥協を許さない純粋な野党としての性格を強めていくことになった。

普通選挙運動への傾斜と解党

小政党となった立憲国民党は、その後も一貫して藩閥政治や特権階級を批判し、普通選挙制度の導入などを強く主張して、大正デモクラシー期における急進的かつ民主的なオピニオンリーダーとしての役割を担った。しかし、大正期の政界が立憲政友会と憲政会(立憲同志会の後身)による「憲政の常道」と呼ばれる二大政党制への道を歩む中で、第三極としての党勢拡大は極めて困難であった。最終的に1922年(大正11年)、普通選挙獲得運動をさらに強力に推進するため、無所属団などと合同して革新倶楽部を結成し、立憲国民党は発展的に解党した。「憲政の神様」と称された犬養毅が率いたこの政党は、大正期の政党政治確立に向けた激動の時代を象徴する存在であった。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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