本願寺派

蓮如の卓越した布教活動によって室町時代に急激に勢力を拡大した、浄土真宗の一派を何というか?
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本願寺派

【概説】
蓮如の布教によって北陸や近畿を中心に爆発的に広まった、親鸞を宗祖とする浄土真宗の教団。中世後期の農村自治組織と結びついて巨大な権力を持つようになり、各地で一向一揆を起こして戦国大名と激しく対立した。江戸時代初期に徳川家康の政策によって東西に分裂したが、現在も日本最大級の仏教教団として続いている。

宗祖親鸞から本願寺の成立

浄土真宗の宗祖である親鸞の死後、その末娘である覚信尼が門弟たちの協力を得て、京都の東山に廟所(大谷廟堂)を建立したのが本願寺の起源である。その後、鎌倉時代後期の1312年に、覚信尼の孫である覚如がこれを寺院化して「本願寺」を公称し、教団としての体裁を整えた。しかし、室町時代前期までの本願寺は、天台宗の有力門跡である青蓮院の末寺という位置づけに過ぎず、高田派や仏光寺派といった他の真宗諸派の後塵を拝する小規模な教団であった。

蓮如の登場と教団の飛躍的拡大

本願寺派が歴史の表舞台に躍り出たのは、室町時代中期に第8代宗主(法主)となった蓮如の功績による。延暦寺からの激しい弾圧(寛正の法難)を受けて京都を追われた蓮如は、近江や越前吉崎などを拠点として猛烈な布教活動を展開した。彼は平易な手紙形式の法語である「御文(おふみ)」を用いて「悪人正機」などの親鸞の教義をわかりやすく説き、信者たちを「(こう)」と呼ばれる信仰組織に編成した。この「講」は、当時の農村における自治組織である「惣村(そうそん)」と深く結びつくことで、北陸や近畿地方の農民、さらには地侍や国人層をも取り込み、教団は爆発的な拡大を遂げた。

一向一揆の展開と戦国大名との対立

教団の巨大化は、やがて強大な政治的・軍事的権力への転化をもたらした。本願寺派の門徒たちは他宗派から「一向宗」と呼ばれ、地域の領主や守護大名の支配に抵抗して各地で一向一揆を引き起こした。特に1488年の加賀の一向一揆では、守護の富樫政親を自刃に追い込み、以後約1世紀にわたって「百姓の持ちたる国」と呼ばれる門徒中心の自治支配を実現している。

戦国時代後期に入ると、第11代宗主の顕如のもとで大坂の石山本願寺を本拠地とし、強固な城郭寺院を築き上げた。天下統一を目指す織田信長が本願寺の武装解除と退去を求めると、顕如は全国の門徒に激突を呼びかけ、毛利氏や武田氏、朝倉氏などの反信長勢力と結びついて徹底抗戦した。これが1570年から約10年間に及ぶ石山合戦であり、戦国期最大の宗教戦争となった。

東西本願寺の分裂とその後

石山合戦は最終的に朝廷の調停によって和睦が成立し、顕如は石山本願寺を退去した。その後、豊臣秀吉の庇護を受けた本願寺派は、京都の堀川六条に新たな寺地(現在の西本願寺)を与えられ、教団の再建を図った。しかし顕如の死後、信長への抗戦を主張し続けた強硬派の長男・教如と、顕如に従って和睦を受け入れた穏健派の三男・准如の間で、激しい後継者争いが勃発した。

1602年、この教団内の対立に目をつけた徳川家康は、教如に烏丸七条の地を与えて新たな寺院を建立させた。これにより、強大な結束力を誇った本願寺教団は、准如を継ぐ西本願寺(浄土真宗本願寺派)と、教如を祖とする東本願寺(真宗大谷派)に分裂することとなった。この家康の宗教政策によって本願寺の政治的・軍事的な脅威は完全に排除されたが、信仰の基盤は失われることなく、現在に至るまで両派ともに日本最大級の仏教教団としてその命脈を保っている。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

日本史一問一答(ランダム)

Q. 奥州藤原氏が本拠地とし、中尊寺金色堂などに代表される華麗な仏教文化が花開いた現在の岩手県の地名はどこか。
Q. 金箔の背景に極彩色の絵の具を厚く塗り、力強い線で描く桃山文化を代表する障壁画の技法を何というか?
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