中期(古墳時代)
【概説】
4世紀末から5世紀末頃にあたる、古墳時代の時期区分の一つ。百舌鳥・古市古墳群に代表される巨大な前方後円墳が築造され、副葬品が呪術的なものから鉄製の武器や武具、馬具などの実用的なものへと変化した時期。東アジアの激動を背景にヤマト政権が軍事的に台頭し、「倭の五王」が中国の南朝に朝貢して国内支配を強化した時代でもある。
巨大前方後円墳の出現と王権の強大化
古墳時代中期は、墳丘長が400メートルを超えるような超大型の前方後円墳が築造された時期である。前期において大和盆地の東南部(大和柳本古墳群など)を中心に築かれていた王墓は、中期に入ると河内平野(現在の大阪府)へと移動し、百舌鳥・古市古墳群が形成された。
その代表的なものとして、日本最大の規模を誇る大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)や、それに次ぐ誉田御廟山古墳(伝応神天皇陵)などが挙げられる。これらの巨大古墳の築造は、ヤマト政権の首長(大王)が強大な土木動員力を持つまでに権力を確立したことを示している。同時に、列島各地の有力首長層も巨大な前方後円墳を築いており、畿内の大王を中心としながらも、各地域の首長が連合して身分秩序を形成する政治体制が確立していた。
副葬品の変化と首長の武人化
前期の古墳の副葬品は、銅鏡(三角縁神獣鏡など)や腕輪類を中心とする呪術的・宗教的な性格が強かったが、中期には大きな変質を遂げた。鉄製の刀剣や甲冑などの武器・武具、さらには大陸から伝わった馬具が副葬品の主流となったのである。
この変化は、ヤマト政権の大王や地域の首長たちが、宗教的な司祭者としての性格から、軍事的な統率者・武人としての性格へと転換したことを物語っている。また、墳丘上に並べられる埴輪においても、従来の円筒埴輪に加えて、家形、武器・武具形、そして人物や動物(馬など)をかたどった形象埴輪が豊富に作られるようになり、当時の軍事パレードや葬送儀礼の様子を今日に伝えている。
東アジア情勢の激動と「倭の五王」の外交
古墳時代中期の軍事化の背景には、4世紀後半から5世紀にかけての東アジア情勢の激動があった。朝鮮半島では、北方の強国・高句麗が南下政策を推し進め、百済や新羅に圧力をかけていた。ヤマト政権は鉄資源の確保と半島南部(加耶・任那地域)における権益を維持するため、朝鮮半島へ出兵し高句麗軍と激しく交戦した。この事実は、中国吉林省にある好太王碑(広開土王碑)の碑文に克明に記されている。
さらに、ヤマト政権の大王たちは、軍事的な優位性を国際的に承認させるため、中国の南朝(宋など)へ頻繁に使者を派遣した。中国の史書『宋書』倭国伝に記された「讃・珍・済・興・武」の倭の五王による朝貢がこれにあたる。彼らは中国皇帝から「安東大将軍」などの将軍号を授与されることで、朝鮮半島における外交的立場を有利にし、同時に国内における大王としての絶対的な権威を固めようとしたのである。
渡来人の活躍と新技術の伝来
朝鮮半島との活発な交流や軍事的緊張に伴い、大陸や半島から多くの人々が日本列島へ渡ってきた。彼ら渡来人は、ヤマト政権の発展に不可欠な新たな技術や文化をもたらし、歴史を大きく動かす原動力となった。
代表的なものとして、硬く焼き上げられた実用的な陶質土器である須恵器の生産、鉄資源を加工する高度な鍛冶技術、機織り技術などが伝えられた。また、カマド(竈)の普及による住環境の劇的な改善や、乗馬の風習もこの時期に定着している。さらに、漢字などの文字や、公的な記録・外交文書を作成する知識ももたらされ、後の律令国家形成に向けた実務的な基盤がこの古墳時代中期に築かれ始めたと言える。