後期(古墳時代)

重要度
★★★

後期(古墳時代)

6世紀〜7世紀

【概説】
古墳時代の6世紀から7世紀にかけての時期。有力農民層への古墳造営の拡大に伴う群集墳の激増や、埋葬施設としての横穴式石室の普及が最大の特徴である。ヤマト政権の地方支配が進展し、古代国家形成に向けた社会構造が大きく変容した転換期でもある。

横穴式石室の普及と家族・血縁集団の変化

古墳時代後期における最大の葬送儀礼の変革は、埋葬施設が従来の竪穴式石室から横穴式石室へと移行したことである。竪穴式石室が単独の埋葬を前提としていたのに対し、横穴式石室は遺体を安置する玄室とそこに至る羨道(せんどう)を持ち、入り口を開閉することで追葬(後から別の遺体を葬ること)が可能であった。これにより、特定の個人のみを埋葬するのではなく、特定の血縁関係を持つ親族を代々葬る「家族墓」としての性格を持つようになった。この変化は、当時の社会において家父長的な家族・血縁集団が社会の基礎単位として確立し始めたことを示している。

群集墳の爆発的増加と造墓階層の拡大

6世紀に入ると、畿内を中心に巨大な前方後円墳の築造が衰退していく一方で、丘陵の斜面などに数十から数百基の小規模な古墳(主に円墳)が密集して築かれる群集墳が爆発的に増加した。代表的なものに和歌山県の岩橋千塚古墳群や埼玉県の吉見百穴などがある。これは、それまで各地域の有力な首長層に限られていた古墳の造営が、ヤマト政権の支配下で成長した新興の有力農民層(村落内の有力な家族の長など)にまで拡大したことを意味する。農業生産力の向上や鉄製農具の普及を背景に、彼らが一定の経済力と社会的地位を獲得した結果であった。

副葬品の実用化と装飾古墳の展開

副葬品の内容も、前期・中期とは大きく趣を変える。かつての呪術的・儀礼的な銅鏡や腕輪類に代わり、金銅製の馬具、鉄製の武器・武具、そして日常的な供献用の土器である須恵器や土師器が大量に副葬されるようになった。これは被葬者の生前の権力や富を誇示するとともに、死後の生活を意識した他界観の変化を表している。また、この時期には石室内の壁や石棺に彩色や線刻で文様・絵画を施した装飾古墳も登場した。特に九州地方(福岡県の竹原古墳や熊本県のチブサン古墳など)や関東・東北地方に多く見られ、当時の人々の思想や風俗を知る上で極めて重要な史料となっている。

ヤマト政権の地方支配進展と国家形成への胎動

古墳時代後期の社会変容は、ヤマト政権による中央集権的な支配体制の強化と密接に連動していた。6世紀のヤマト政権は、朝鮮半島での国際的な緊張(任那の滅亡など)を背景に、国内の支配を固める必要に迫られていた。そのため、地方の首長を国造(くにのみやつこ)に任命して地方支配を再編し、屯倉(みやけ)や部民制を全国規模で展開した。群集墳を多数築いた有力農民層は、こうしたヤマト政権の末端の生産機構を支える存在として体制内に組み込まれていったのである。やがて6世紀末から7世紀にかけて仏教が本格的に受容され、大王(天皇)を中心とする宮都が営まれるようになると、前方後円墳の造営は完全に停止し、日本社会は律令国家の形成期(古墳時代終末期・飛鳥時代)へと移行していくこととなる。

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群集墳と終末期古墳の研究

地域社会における権力構造の変容を、群集墳と終末期古墳という二つの墓制から読み解き、古代の集落形成を追究する論集。

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