フォンタネージ

高校日本史的重要度
★★

フォンタネージ

1818年〜1882年

【概説】
明治初期にお雇い外国人として来日したイタリアの風景画家。工部省が創設した工部美術学校で画学(油絵)の初代教師を務め、日本近代洋画の先駆者となる多くの画家を育成した人物。

工部美術学校への招聘と西洋美術の導入

明治政府は、西洋の優れた技術を導入して近代国家を建設すべく、殖産興業政策を推し進めた。その一環として、1876年(明治9年)に美術技術の習得を目指す工部美術学校が設立された。当時、彫刻のラグーザ、建築のコペレッティとともに、絵画部門の指導者としてイタリアから招かれたのがアントニオ・フォンタネージであった。

フォンタネージは、フランスのバルビゾン派(ミレーやコローなど、自然を叙情的に描いた画派)の作風に強く影響を受けており、光と影の繊細なコントラストを用いた風景画を得意としていた。彼が日本にもたらしたものは、単なる写実的な描画技術にとどまらず、自然をいかに観察し、その「空気感」や「内面」をいかにキャンバスに表現するかという、本格的な西洋美術の精神であった。

後進の育成と近代洋画史への足跡

フォンタネージの日本での滞在期間は、1876年から1878年(明治11年)までのわずか2年ほどであったが、その情熱的で体系的な指導は学生たちから深く慕われた。彼の門下からは、日本の近代洋画を牽引することになる浅井忠や小山正太郎、山本芳翠ら、錚々たる人材が輩出された。

フォンタネージが病気療養のために帰国を余儀なくされると、後任教師の指導方針に不満を抱いた浅井忠や小山正太郎ら多くの学生が工部美術学校を退学した。彼らは自主的に日本初の洋画団体である「十一会」を組織し、独自の道を歩むことになる。このように、短い在任期間ながらもフォンタネージが日本の青年画家に与えた芸術的・精神的影響は計り知れず、彼が植え付けたバルビゾン派の叙情は、のちの浅井忠の傑作『収穫』や『グレーの秋』などの作品へと結実していった。

最終更新:
2026年6月16日 @ 07:32

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