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  • 加曽利貝塚

    加曽利貝塚 (縄文時代中期~後期)

    【概説】
    千葉県千葉市若葉区に位置する、日本最大級の規模を誇る縄文時代の貝塚。縄文時代中期から後期(紀元前約3000年〜紀元前約1000年頃)にかけて形成された巨大な環状および馬蹄形の貝塚であり、2017年には貝塚として初の国指定特別史跡に指定された遺跡である。

    「8の字形」が示す約2000年間にわたる定住の歴史

    加曽利貝塚の最大の特徴は、その圧倒的な規模と独特な形状にある。約13.4ヘクタールに及ぶ遺跡一帯には、縄文時代中期の同心円状の「北貝塚」(直径約130メートル)と、後期の馬蹄形(一部が切れた環状)の「南貝塚」(長径約190メートル)が隣接しており、全体として「8の字形」の極めて特異な景観を呈している。

    このように同一の場所で約2000年もの長期にわたり定住生活が維持された例は、世界的に見ても稀有である。縄文時代の中期から後期にかけては、気候の寒冷化やそれに伴う環境の変化が起きた時期であるが、加曽利貝塚の存在は、当時の人々が周囲の豊かな落葉広葉樹林と浅瀬の広がる東京湾(古東京湾)の恵みを巧みに利用し、環境変化に適応しながら安定的・持続的な社会を維持していたことを証明している。

    東日本縄文土器の基準となった「加曽利E式・B式」

    加曽利貝塚は、日本考古学における「編年(土器の年代決定)」の研究において極めて重要な標式遺跡である。この地で出土した土器をもとに、縄文時代中期を代表する加曽利E式土器、および後期を代表する加曽利B式土器という編年基準が設定された。

    加曽利E式土器は、キャリパー形と呼ばれる特異な器形をもち、隆起線や複雑な縄文が施されたダイナミックなデザインが特徴で、縄文文化が東日本において最も隆盛を極めた時期(中期)の象徴とされる。一方、加曽利B式土器は、横方向の沈線によって文様帯を区分する端正で整ったデザインが特徴であり、社会が定住化から次の段階(後期)へと移行し、儀礼や共同体の秩序がより体系化されたことを示唆している。これらの土器編年は、関東地方のみならず東日本全体の縄文土器研究の強固なものさしとして、今なお考古学研究の基礎を支えている。

    生業と精神世界を映し出す「貝塚」の真実

    かつて貝塚は、近代考古学の祖であるエドワード・S・モースらによって単なる「ゴミ捨て場(Shell mound)」と解釈される傾向にあったが、近年の研究により、その認識は大きく改められている。加曽利貝塚から出土した大量のイボキサゴ(小型の内湾性の貝)や、マダイ、スズキなどの魚骨、シカやイノシシなどの獣骨は、集落の計画的な採集活動や高度な漁労・狩猟技術を示している。

    同時に、貝塚からは丁重に埋葬された人骨や、犬(猟犬)の骨、そして土偶や石棒といった祭祀用具が多数発見されている。このことから、縄文人にとって貝塚とは不要物を捨てる場所ではなく、命を繋いでくれた動物や道具の「魂」を自然界へと還し、その再生を祈るための聖なる祭祀・儀礼の場であったと考えられるようになっている。加曽利貝塚は、縄文人の精神文化や精緻な社会秩序を解き明かす、まさに歴史の一大アーカイブなのである。

  • 中新世

    中新世 (ちゅうしんせい)

    約2303万年前〜約533万年前

    【概説】
    新生代の新第三紀前半に位置する地質時代。日本列島がアジア大陸から分離して現在の「島国」の形へと近づき、地球規模では最古の人類が誕生した激動の時代。

    日本列島の成立と地殻変動

    中新世は、日本史における「舞台」としての日本列島が形作られた極めて重要な時期である。この時代が始まる以前、現在の日本列島に相当する陸地はアジア大陸の東端に位置していた。しかし、約2000万年前から日本海が急激に拡大し始め、大陸から引き裂かれるようにして日本列島が弧状列島へと変貌していった。この時期に起きた激しい火山活動や地殻変動は「グリーンタフ(緑色凝灰岩)変動」と呼ばれ、現在の日本列島の骨格と、のちの鉱山文化を支える多様な鉱物資源が形成された。

    地球環境の変化と初期人類の誕生

    中新世を通じて地球環境は徐々に寒冷化へ向かい、森林の縮小と草原の拡大が進んだ。こうした環境変化に適応する形で、中新世末期にあたる約700万年前のアフリカにおいて、人類の祖先とされるサヘラントロプス・チャデンシス(トゥーマイ猿人)などの初期人類が出現した。のちの旧石器時代に日本列島へ渡来する人類の祖先は、この中新世における激しい気候変動を契機として、進化の歩みを始めたのである。

  • 新第三紀

    新第三紀 (しんだいさんき)

    約2300万年前〜約258万年前

    【概説】
    新生代の中期に位置する地質時代の一区分。日本海が形成されて日本列島の祖型が誕生した時期にあたり、世界史的には初期の人類が誕生・進化した重要な転換期。

    日本列島の誕生と地殻変動

    新第三紀(中新世・鮮新世)は、日本列島の歴史を遡る上で極めて重要な時代である。約2000万年前、それまでユーラシア大陸の一部であった陸地が、地殻変動によって引き裂かれ始めた。これにより日本海が形成され、日本列島の原型となる弧状列島(孤立した島々)が誕生した。この激しい変動期には火山活動が活発化し、現在の日本列島の土台となる地層や豊かな鉱物資源が形成されることとなった。

    地球規模の環境変化と人類の起源

    世界的な規模においては、新第三紀は気候の寒冷化と乾燥化が進んだ時代であった。この環境変化に伴い、それまで地球を覆っていた森林が衰退し、草原(サバナ)が拡大した。この植生の変化に適応する形で、アフリカにおいて森林から平原へと進出した初期の人類(猿人)が誕生したとされる。この時期に始まった人類の歩みは、続く第四紀(更新世・完新世)の旧石器時代における、本格的な道具の使用や文化の発展へと繋がっていく。

  • アウストラロピテクス

    アウストラロピテクス (あうすとらろぴてくす)

    約400万年前〜約100万年前

    【概説】
    アフリカ大陸で多くの化石が発見された、ラテン語で「南の猿」を意味する代表的な猿人。約400万年前に出現し、直立二足歩行を行っていたとされる。打製石器(礫石器)を使用し、人類進化の最初期の段階を解き明かす上で極めて重要な存在である。

    直立二足歩行の開始と身体的特徴

    アウストラロピテクスは、1924年に南アフリカで発見された「タウング幼児」の化石をもとに、解剖学者のレイモンド・ダートによって命名された。ラテン語の「australis(南の)」とギリシア語の「pithekos(猿)」を組み合わせた言葉である。彼らの最大の特徴は、直立二足歩行を行っていた点にある。

    直立二足歩行により、前肢(手)が歩行の役目から解放された。これにより、道具を操ることや食物を安全に運搬することが可能となった。脳容積は500cc程度と現代のチンパンジー並みで、チンパンジーと人間の特徴を併せ持っていたが、骨盤や足の骨の構造から二足で直立して歩いていたことが証明されている。東アフリカのタンザニアにあるラエトリ遺跡では、火山灰の上に残されたアウストラロピテクスの明確な足跡化石が発見されており、その歩行様式を裏付ける決定的な証拠となっている。

    最古の石器使用と生活様式

    アウストラロピテクスは、古くは道具を使用しない原始的な人類と考えられていたが、近年の考古学的調査により、最も古いタイプの打製石器である礫石器(オルドワン石器など)を使用していた可能性が極めて濃厚となっている。

    特にエチオピアで発見されたアウストラロピテクス・ガルヒの周辺からは、獣骨に付着した切り傷痕や、肉を剥ぎ取るために使われたとみられる石器が発見されている。これにより、彼らが肉食をはじめとする多様な食生活に適応していたことが明らかになった。道具の使用は脳のさらなる発達を促し、後のホモ属(原人)へとつながる進化のトリガーとなったと考えられている。

    日本史における人類の出現と猿人の意義

    日本の考古学・日本史の学習において、人類の起源としての猿人の理解は基本事項である。しかし、日本列島においてアウストラロピテクスの化石は発見されていない。この時代(更新世前期以前)、日本列島はまだアジア大陸の東端に位置する陸塊の一部であり、地質学的な変動が激しかったことに加え、日本の土壌(火山灰土に由来する酸性土壌)が骨を溶かしてしまうため、化石として残りにくい環境にあった。

    日本列島における最古の人類の活動は、地質年代でいう更新世の中期から後期、時代区分としては旧石器時代(特に約4万年前の後期旧石器時代以降が確実視されている)の原人・旧人・新人の段階からである。したがって、日本史におけるアウストラロピテクスの学習は、日本列島に到達するはるか以前の人類進化の起点として、世界史的な視野から「人類の誕生」を位置づけるために不可欠な知識となる。

  • 猿人

    猿人

    約700万年前〜約130万年前

    【概説】
    人類の進化における最初の段階に位置づけられる初期人類。約700万年前にアフリカ大陸で誕生し、人類最大の特徴である直立二足歩行を始めるとともに、簡単な打製石器を使用するようになった。代表的な化石人類にアウストラロピテクスなどが存在する。

    人類の誕生と「直立二足歩行」の意義

    地球上に人類の祖先が誕生したのは、今から約700万年前のアフリカ大陸であると考えられている。この人類進化の最初期に属する集団を猿人と呼ぶ。猿人とそれ以前の類人猿(チンパンジーなどの祖先)を分かつ決定的な特徴は、直立二足歩行を開始したことである。

    直立して二本の足で歩くことにより、人類は前足(手)を歩行から完全に解放した。これにより、食物の運搬や道具の製作・使用が容易になり、指先を通じた手への刺激が脳の容量を徐々に拡大させていく要因となった。また、重い頭部を脊髄の真上で支えることができるようになったことも、後の人類の脳の巨大化に繋がる重要な身体的変化であった。

    代表的な猿人とその進化

    現在のところ、最古の猿人とされているのが、約700万年前の地層から中央アフリカのチャドで発見されたサヘラントロプス・チャデンシスである。次いで、約440万年前の地層からエチオピアで発見されたアルディピテクス・ラミダスなどが知られている。

    最も著名な猿人は、約400万年前から約130万年前にかけてアフリカ東部から南部にかけて生息していたアウストラロピテクス(「南の猿」の意)である。彼らの脳容積は500cc未満と現代人の三分の一程度であり、類人猿と大差なかったが、骨盤や大腿骨の構造から確実に直立二足歩行をしていたことが証明されている。なお、猿人の化石はすべてアフリカ大陸でのみ発見されており、彼らがアフリカを出て他の大陸へ拡散することはなかったと考えられている。

    石器の使用と文化の萌芽

    猿人は、自然の木の枝や動物の骨をそのまま利用するだけでなく、石を打ち欠いて作った打製石器を使用し始めた。アウストラロピテクスに近い種(あるいは初期のホモ属)は、河原の石を打ち砕いて鋭い刃を持たせた簡素な礫石器(れきせっき)を製作していたことが分かっている。

    道具を自ら製作して使用するという行為は、自然環境に単に適応するだけでなく、環境に働きかけて生を営む「文化」の萌芽を示すものであり、人類史において極めて重大な飛躍であった。彼らはこれらの石器を用いて、動物の肉を解体したり、骨を割って栄養価の高い骨髄をすすったりして動物性タンパク質を摂取し、サバンナでの厳しい生存競争を生き抜いたと考えられている。

    日本史における位置づけ

    日本史の学習において、旧石器時代の冒頭で必ず人類の進化(猿人・原人・旧人・新人)の過程が扱われる。しかし、日本列島においては猿人段階の化石や遺跡は一切発見されていない。前述の通り、猿人はアフリカ大陸を出ることはなく、日本列島を含むユーラシア大陸東端に人類が到達するのは、後の原人、あるいは新人(ホモ・サピエンス)の段階を待たねばならない。

    それでも日本史の序章で猿人が言及されるのは、日本列島の歴史が世界史的な人類進化の壮大なプロセスの延長線上に位置していることを理解するためである。猿人が獲得した直立二足歩行と道具の製作という人類の根源的な特徴は、数百万年の時を経て日本列島に到達し、独自の石器文化を築いた旧石器時代の人々の生活基盤へと直結しているのである。

  • サヘラントロプス・チャデンシス

    サヘラントロプス・チャデンシス (さへらんとろぷす・ちゃでんしす)

    約700万年前

    【概説】
    アフリカ中部のチャドで発見された、約700万年前の最初期の人類化石。現在のところ人類の系統に属する最古級の化石とされており、人類の起源と進化の歴史を大幅に遡らせた極めて重要な発見である。

    「東アフリカ起源説」への挑戦と中央アフリカでの発見

    2001年、中央アフリカのチャド共和国にあるジュラブ砂漠において、フランスの古人類学者ミシェル・ブリュネらの調査隊によって頭骨化石が発見された。この化石は現地語で「生命の希望」を意味する「トゥーマイ」という愛称で呼ばれている。

    それまで、初期人類の化石の多くは東アフリカの大地溝帯(リフトヴァレー)から発見されており、人類の誕生と初期の進化は東アフリカに限定されるという説(イーストサイド・ストーリーなど)が有力であった。しかし、アフリカ中部であるチャドからの発見は、初期人類の生息域がこれまで考えられていた以上に広範囲に及んでいたことを示し、人類進化の地理的解釈に大きな見直しを迫ることとなった。

    直立二足歩行の痕跡と人類進化における位置づけ

    サヘラントロプス・チャデンシスの最大の特徴は、約700万年前という分子系統学が示すチンパンジーと人類の分岐点に近い年代でありながら、すでに人類の決定的な特徴である直立二足歩行を行っていた可能性が高い点にある。頭骨の底に位置する大後頭孔(脳から脊髄が通る穴)が、四足歩行の類人猿よりも中央寄りの下方向を向いていることから、頭部が脊柱の真上に乗る直立姿勢をとっていたと推測されている。

    また、チンパンジーなどの類人猿に比べて犬歯が小型化しており、牙として他者を威嚇する機能を失いつつあったことも、人類としての特徴を示している。この発見により、人類の定義である「直立二足歩行」の起源は従来の想定よりも数百万年遡ることとなり、初期人類の進化の道筋を解き明かすための最も重要なピースの一つとなっている。

  • 炭素14年代法(放射性炭素年代測定法)

    炭素14年代法(放射性炭素年代測定法)

    【概説】
    動植物の遺骸に含まれる放射性同位体である炭素14が、死後に一定の速度で減少する性質を利用した年代測定法。1947年にアメリカの物理化学者ウィラード・リビーによって開発された。文字記録の残っていない先史時代などの遺跡や遺物の絶対年代を科学的に特定する手法として、考古学や歴史学の発展に劇的な進展をもたらした。

    測定の原理と仕組み

    地球上の大気中には、通常の炭素(炭素12)に混じって、ごく微量の放射性同位体である炭素14(14C)が一定の割合で存在している。植物は光合成によって、動物はその植物を捕食することによって炭素を取り込むため、生きている間は体内の炭素14の割合が大気中と同じ水準に保たれる。

    しかし、動植物が死を迎えると新たな炭素の取り込みが止まる。体内に残された炭素14は放射線を出しながら別の元素(窒素14)へと変化(崩壊)していくため、時間の経過とともに減少していく。この炭素14が元の量の半分になる時間(半減期)は、約5730年であることが分かっている。この物理法則を利用し、遺跡から出土した木炭、骨、貝殻、木製品などの有機物に残存する炭素14の割合を測定することで、その動植物が死んだ年代、すなわち遺物が使われていた年代を逆算することができるのである。

    考古学における画期的な意義

    炭素14年代法が登場する以前の考古学では、地層の上下関係や土器の型式変化などに基づく「相対年代」の決定が主流であった。「Aの土器はBの土器より古い」という順序は判明しても、「それが今から具体的に何年前のものか」という「絶対年代」を客観的に示すことは極めて困難であった。

    しかし、この測定法の実用化により、文字を持たない旧石器時代や縄文時代をはじめとする世界中の先史遺跡の年代が、科学的根拠に基づいて世界共通の尺度で比較可能となった。人類史の枠組みを大きく書き換えたこの功績により、開発者のリビーは1960年にノーベル化学賞を受賞している。

    測定技術の進化と「較正年代」の導入

    初期の炭素14年代法は測定に大量の試料を必要とし、測定誤差も大きいという課題を抱えていた。しかし近年では、加速器質量分析(AMS)法と呼ばれる新技術が導入された。これにより、数ミリグラムのわずかな木炭や土器に付着した焦げ跡(付着炭化物)など、ごく微量の試料からでも高精度な年代測定が可能となった。

    さらに、かつては「大気中の炭素14の濃度は過去から現在まで常に一定である」という前提に立っていたが、実際には太陽活動や地球磁場の変動によって時代ごとに揺らぎがあることが判明した。現在では、樹木の年輪から1年単位で年代を割り出す年輪年代法(日本では主にヒノキなどを利用)などの膨大なデータと照合し、得られた炭素14年代の誤差を補正する「較正年代(こうせいねんだい)」を使用することが世界の考古学の標準となっている。

    日本史研究への影響とパラダイムシフト

    日本史、特に旧石器時代から縄文時代・弥生時代にかけての年代観は、AMS法を用いた高精度な炭素14年代測定によって大きく揺さぶられ続けている。最も著名な例が、縄文時代の開始年代の繰り上げである。かつて縄文時代の始まりは約1万年前とされていたが、青森県の大平山元I遺跡(おおだいやまもといちいせき)から出土した無文土器に付着していた炭化物を測定した結果、約1万6500年前(較正年代)のものであることが判明し、世界最古級の土器であることが明らかになった。

    また、2003年には国立歴史民俗博物館の研究チームが、弥生時代早期・前期の土器付着炭化物を測定した結果、弥生時代の開始が従来の定説(紀元前5〜4世紀頃)よりも約500年さかのぼる「紀元前10世紀頃」であるという見解を発表し、学界に大きな論争を巻き起こした。このように、炭素14年代法は現在も日本の歴史像を根本から見直し、更新し続ける極めて重要な研究手法となっている。

  • 年輪年代法

    年輪年代法 (ねんりんねんだいほう)

    【概説】
    樹木の年輪の幅が毎年の気候変動によって変化することを利用し、遺跡から出土した木材製品の年代を測定する自然科学的年代測定法。従来の考古学的年代観を1年単位の極めて高い精度で修正し、日本古代史の画期を大きく塗り替えた重要な技術である。

    年輪年代法の原理と基準パターンの構築

    年輪年代法は、樹木が成長する際に形成する年輪の幅(肥大成長量)が、その年の気温や降水量などの気候変動に影響されて変化する性質を利用したものである。同地域・同種の樹木であれば、同じ年代に同様の年輪幅のパターン(疎密の並び)が形成される。このパターンを現代の生木から順次、古い時代の歴史建築や遺跡出土木材へと遡って繋ぎ合わせることで、過去に遡る長期の基準パターン(標準年輪曲線)が作成される。

    日本では、長寿かつ材質が均質で保存性の高いヒノキスギが主に用いられる。奈良文化財研究所などの長年の研究により、日本産ヒノキについては過去約3000年間にわたる標準年輪曲線が確立されており、出土した木材の年輪パターンと照合することで、その木材が「西暦何年に伐採されたか」を1年単位の精度で特定することが可能となった。

    考古学・日本史学にもたらした劇的な影響

    年輪年代法の導入は、従来の土器編年(土器の型式の変化に基づく相対的な年代決定)に依存していた日本考古学に決定的な変革(年代革命)をもたらした。特に、弥生時代から古墳時代にかけての時期の年代決定において劇的な成果を上げた。

    代表的な例が、大阪府の池上曽根遺跡から出土した神殿風大型建物の柱である。このヒノキの柱の年輪を測定したところ、紀元前52年に伐採されたものであることが判明した。これにより、従来の考古学的な想定よりも弥生時代の中期が約100年遡ることが実証され、弥生社会の発展スピードや初期国家形成プロセスの評価に大きな見直しを迫ることとなった。

    また、奈良県の纒向遺跡をはじめとする初期古墳の出現期についても、本手法や放射性炭素年代測定法の併用により年代論争が活発化し、邪馬台国の女王・卑弥呼の時代と古墳時代の開始時期との関連性がより精密に議論されるようになった。

    応用における限界と新たな技術的進展

    年輪年代法は極めて精度が高い反面、いくつかの適用上の制約が存在する。まず、正確な「伐採年」を特定するためには、樹木の最も外側の部分である樹皮(または樹皮に極めて近い辺材)が残っている必要がある。木材の表面が削られたり腐朽したりしている場合、判明するのは「その年以降に伐採された」という上限年代(終期)にとどまる。また、日本のような温暖多湿な環境では木材が残り残存しにくいため、測定に適した良好なサンプルが得られる遺跡は水はけの悪い低湿地遺跡などに限定されやすい。

    近年では、従来の年輪幅の測定に加え、木材細胞のセルロースに含まれる酸素の同位体比を分析する酸素同位体比年輪年代法が開発された。これにより、年輪が非常に細かく目視での測定が困難な木材や、これまですり合わせが難しかった樹種についても高い精度での年代決定が可能となり、年輪年代学はさらなる進化を遂げている。

  • 間氷期

    間氷期 (かんぴょうき)

    更新世:約258万年前〜約1万1700年前

    【概説】
    氷河時代において、寒冷な氷期と氷期の間に挟まれた、比較的温暖な気候の時期。地球規模での海面上昇(海進)を伴い、日本列島の形成や動植物の生態系、そして人類の活動に多大な影響を与えた。

    気候変動のサイクルと日本列島の環境変化

    地球の歴史において、第四紀の更新世(旧石器時代にほぼ該当)には、寒冷な「氷期」と温暖な「間氷期」が約10万年周期で交互に繰り返された。この気候変動は、日本列島の地理的形状を大きく変貌させる要因となった。

    寒冷な氷期には、地球上の水分が氷河として陸上に固定されるため、海水面が現在よりも100メートル以上低下する「海退」が起こり、日本列島はアジア大陸と陸続きになった。一方、温暖な間氷期に入ると、氷河が融解して海水面が上昇する「海進」が起こり、陸橋が水没して日本列島は一時的に大陸から孤立した。この周期的な陸続きと孤立の繰り返しが、日本列島独自の豊かな生態系を育む土台となったのである。

    生態系の変遷と旧石器人の適応

    間氷期の温暖な気候は、日本列島の植物相や動物相に劇的な変化をもたらした。氷期には針葉樹林やステップ(草原)が広がっていた日本列島も、間氷期には落葉広葉樹林や常緑広葉樹林(照葉樹林)が拡大した。

    これに伴い、動物たちの生息環境も変化した。氷期に大陸から陸橋を渡って南下してきたナウマンゾウやオオツノジカなどの大型哺乳類は、間氷期の森林化やその後の気候変動、さらには人間による狩猟の影響などを受けて徐々に減少・絶滅へと向かったとされる。旧石器時代の人類は、こうした氷期から間氷期への環境変化、あるいは間氷期から次の氷期への移行に伴う動植物相の変化に柔軟に対応するため、石器の技術を改良し、遊動生活の範囲や狩猟対象を変化させていった。地質学的な環境移行期への適応こそが、日本列島における人類の歩みの原点であった。

  • 氷期

    氷期 (ひょうき)

    更新世:約258万年前〜約1万1700年前における寒冷期

    【概説】
    地質学上の第四紀更新世(氷河時代)において、地球規模で気候が著しく寒冷化し、氷河が拡大した時期。海面低下によって日本列島がアジア大陸と陸続きとなり、人類や大型動物が渡来する契機となった。

    氷期・間氷期の反復と日本列島の「陸橋化」

    地質学における第四紀の更新世(約258万年前から約1万1700年前)は、地球全体が寒冷化した「氷河時代」にあたる。この氷河時代は常に一様に寒冷だったわけではなく、極めて寒冷な氷期と、一時的に温暖化する間氷期(かんぴょうき)が交互に繰り返された。この周期的な気候変動は、日本列島の地形と生態系に決定的な影響を与えることとなった。

    氷期になると、地球上の水分が広大な氷河として陸上に固定されるため、海洋に還る水が減少する。その結果、地球規模で著しい海面の低下(海退)が発生した。最も寒冷化した時期(約2万年前の最終氷期最寒冷期など)には、海面が現在よりも約100メートルから120メートルも低下したとされている。これにより、現在は海峡によって隔てられている対馬海峡や宗谷海峡が陸地化、あるいは極めて狭い水路となり、日本列島はアジア大陸と繋がる「陸橋(りっきょう)」となったのである。

    大型哺乳類の移動と旧石器人の渡来

    大陸と日本列島が陸続き、あるいは近接したことで、動植物の往来が可能となった。シベリア方面の北方からは、寒冷地に適応したマンモスやヘラジカ(マンモス動物群)が北海道を経由して南下した。一方、中国・朝鮮半島方面の南方からは、温暖な森林を好むナウマンゾウやオオツノジカが本州方面へと流入した。

    この大型野生動物の移動は、それらを狩猟対象とする人類の移動を促した。アジア大陸東部に生息していた旧石器時代の人類(新人であるホモ・サピエンス)は、獲物を追いかける形で陸橋を渡り、日本列島へと足を踏み入れたと考えられている。日本列島各地で発見されている野尻湖遺跡(長野県)などの旧石器時代遺跡からは、ナウマンゾウの骨とともに狩猟用具とみられる石器が発見されており、氷期特有の生態系が人類の生活基盤であったことを示している。

    最終氷期の終焉と島国への変貌

    更新世の末期にあたる約1万年前、地球規模の温暖化に伴い、最後の氷期である「最終氷期」が終焉を迎えた。地質学的には完新世へと移行し、陸上の氷河が融解したことで海面が急速に上昇した(縄文海進)。これにより、陸橋だった部分は再び海中に没し、日本列島はアジア大陸から完全に切り離されて現在のような「島国」となった。

    温暖化と島国化は、列島の植生を大きく変化させ、針葉樹林に代わって落葉広葉樹林や照葉樹林が広がった。これに伴い、マンモスやナウマンゾウといった大型動物は絶滅または列島から姿を消し、代わりにニホンジカやイノシシなどの中小哺乳類が繁殖するようになった。こうした自然環境の劇的な変化に対応するため、列島の人類は弓矢の使用や土器の製作、定住生活を開始し、日本史は旧石器時代から縄文時代へと大きな転換期を迎えることとなった。