第2次大隈重信内閣 (だいにじおおくましげのぶないかく)
【概説】
大正デモクラシー期の1914年4月に成立した、大隈重信を首相とする内閣。第一次世界大戦への参戦や中国への「対華二十一カ条要求」の提出など、積極的な大陸外交を展開した。国民的な人気を背景に発足したが、軍備拡張や強硬外交を進め、大正期の政治・外交の転換点となった政権である。
政権発足の背景と大正デモクラシー
1914(大正3)年、海軍の汚職事件であるシーメンス事件によって第1次山本権兵衛内閣が総辞職した。後継の選定に悩んだ元老(山県有朋ら)は、世論の反発を和らげるため、かつて民間から「憲政の神様」とも慕われ、国民的人気の高かった大隈重信を首相に推薦した。こうして誕生した第2次大隈内閣は、大隈の知名度と「民意の反映」を期待する大衆の支持を背景にスタートした。
この内閣は、政党である立憲同志会(総裁・加藤高明)を事実上の与党とし、加藤を外務大臣に迎えて組織された。一見すると民意を反映した政党風の内閣であったが、その実態は元老や陸海軍といった既存の藩閥勢力とも妥協を重ねる、極めて複雑な政治基盤の上に成り立つものであった。
第一次世界大戦への参戦と対外強硬外交
大隈内閣の発足直後である1914年7月、ヨーロッパで第一次世界大戦が勃発した。加藤高明外相を中心とする大隈内閣は、この戦争を「大正新時代の天佑(天の助け)」と捉え、東アジアにおける権益を一挙に拡大する好機とみなした。日本は日英同盟の協定を口実として、同盟国イギリスの要請を上回る形でドイツに宣戦布告し、参戦に踏み切った。
日本軍は山東半島の青島やドイツ領南洋群島を占領し、さらに1915(大正4)年1月には、中国の袁世凱政府に対して対華二十一カ条要求を突きつけた。この要求は、山東省のドイツ権益の継承や、南満洲・東部内蒙古における日本の権益延長などを含む強硬な内容であった。袁世凱政府がこれを受託したことで、日本の中国進出は大きく進んだが、同時に中国国内での激しい反日運動を誘発し、アメリカやイギリスなどの協調外交路線とも摩擦を生じる契機となった。
軍備拡張と政権の終焉
国内政策においては、第2次西園寺公望内閣を崩壊に追い込む原因となった陸軍の二個師団増設案(朝鮮に配備する2つの師団の増設要求)をめぐる問題が再燃した。大隈内閣は議会での可決を図ったが、野党の立憲政友会などの反対に遭い、一度は衆議院を解散した。
1915年の第12回衆議院議員総選挙において、大隈の国民的人気と政府による露骨な干渉(大浦兼武内相による買収工作など)により、与党の立憲同志会が大勝を収めた。これにより二個師団増設案は可決されたが、選挙干渉事件(大浦事件)の露呈は内閣のクリーンなイメージに大打撃を与えた。大戦景気の恩恵を受けつつも、山東半島をめぐる外交の強硬姿勢に対して元老たちの不満が高まり、孤立した大隈は1916年10月に退陣。後継には長州閥の寺内正毅が就任した。