加藤高明 (かとうたかあき)
【概説】
明治から大正期にかけて活躍した外交官、政党政治家。第2次大隈内閣の外務大臣として第一次世界大戦への参戦や中国への二十一カ条の要求を主導し、後に立憲同志会や憲政会の総裁を務めた。1924年に護憲三派内閣を組織し、普通選挙法や治安維持法の制定を実現させて「憲政の常道」と呼ばれる政党内閣の時代を切り拓いた。
外交官としての台頭と親英外交
加藤高明は1860年に尾張国(現在の愛知県)に生まれ、東京大学法学部を首席で卒業したのち、三菱に入社した。ここで三菱財閥の創始者である岩崎弥太郎の長女と結婚し、強力な財界のバックアップを得ることになる。その後、大隈重信の誘いで外務省に入省し、外交官としてのキャリアを歩み始めた。
加藤の外交官としての最大の業績の一つは、駐英公使および駐英大使としての活動である。彼は強固な親英派として知られ、1902年の日英同盟の締結やその後の改定に深く関与した。数次の内閣で外務大臣を歴任し、近代日本外交の基盤構築に多大な貢献を果たした。
第一次世界大戦と「霞が関外交」
1914年、第2次大隈内閣の外務大臣に就任した加藤は、同年に勃発した第一次世界大戦への参戦を主導した。イギリスからの参戦要請は限定的なものであったが、加藤はこれをアジアにおける日本の権益を拡大する絶好の機会と捉え、日英同盟を理由にドイツに宣戦布告を行った。
さらに1915年には、袁世凱が率いる中華民国政府に対して対華二十一カ条の要求を突きつけ、山東省のドイツ権益の継承や南満州・内蒙古における日本の優越的地位の承認などを迫った。この強硬な外交方針は中国の激しい民族運動を招く原因となった。また、加藤は元老(山県有朋や井上馨ら)への事前相談を意図的に省き、外務省主導で外交政策を決定する「霞が関外交」を推し進めたため、元老層から強い反発を買うこととなった。
政党政治家への転身と雌伏の時代
外交官として頂点を極めた加藤であったが、第3次桂太郎内閣の際に結成された立憲同志会に参加し、政党政治家へと転身した。桂の死後、加藤は立憲同志会の総裁に就任し、1916年には他党を吸収して憲政会を結成し、引き続きその総裁を務めた。
憲政会は衆議院で大きな勢力を持っていたものの、加藤の「霞が関外交」や三菱との強い癒着を嫌悪した元老・山県有朋らが彼を首相に推挙しなかったため、加藤と憲政会は長らく野党としての雌伏の時代を余儀なくされた。しかし、この期間に加藤は政党政治の在り方を探求し、普通選挙の実現などを党の公約として掲げるようになっていった。
護憲三派内閣の成立と「憲政の常道」
1924(大正13)年、貴族院中心の超然内閣である清浦奎吾内閣に対して第二次護憲運動が起こると、加藤率いる憲政会は、立憲政友会(高橋是清)、革新倶楽部(犬養毅)とともに護憲三派を結成して衆議院総選挙で大勝を収めた。これにより、ついに加藤高明を首相とする護憲三派内閣が成立した。これ以降、1932年の犬養内閣崩壊まで衆議院の多数派政党の党首が内閣を組織する「憲政の常道」の時代が幕を開けることとなる。
加藤内閣は、大正デモクラシーの集大成ともいえる重要政策を次々と実現させた。1925年には、ソ連との国交を樹立する日ソ基本条約を締結し、国内では満25歳以上の全ての男子に選挙権を与える普通選挙法を制定した。その一方で、社会主義運動や共産主義運動の広がりを警戒し、治安維持法を普通選挙法と抱き合わせで制定したことは、その後の日本の歴史に大きな影響を及ぼした。また、陸軍大臣の宇垣一成のもとで軍縮(宇垣軍縮)を断行するなど、国民負担の軽減にも取り組んだ。
加藤は1926年、首相在任中のまま病に倒れ、66歳の生涯を閉じた。外交官として帝国日本の権益拡大を図り、政党政治家として大正デモクラシーの結実を主導した彼の足跡は、近代日本政治史において極めて重要な位置を占めている。