総力戦
【概説】
第一次世界大戦において初めて現出した、軍隊の戦闘力だけでなく、国家の経済力、科学技術、国民の労働力など、あらゆる国力を動員して遂行される戦争形態。前線と銃後の区別が消滅し、国家そのものの存亡をかけた総力戦の到来は、日本にも強い衝撃を与え、のちの国家総動員体制の構築へとつながる歴史的契機となった。
第一次世界大戦と「総力戦」の誕生
第一次世界大戦(1914〜1918年)は、それまでの戦争の概念を根底から覆すものであった。機関銃の普及による塹壕戦の膠着化は戦争の長期化を招き、毒ガス、戦車、航空機、潜水艦といった新兵器が次々と実戦投入された。これら大量の近代兵器と莫大な弾薬を持続的に供給するためには、巨大な工業力と高度な科学技術が必要不可欠となった。
同時に、成人男性の多くが前線へ動員された結果、深刻な労働力不足に陥った銃後(後方)では、女性や非戦闘員が軍需工場に大量動員された。さらに、国民の戦意を持続させるためのプロパガンダ(思想戦)や、敵国の経済を干上がらせるための海上封鎖(経済戦)も大々的に展開された。このように、交戦国が軍事力のみならず、政治、経済、産業、思想など国家のもつ全ての資源とエネルギーを戦争遂行のために注ぎ込む形態が、ドイツの将軍ルーデンドルフの言葉にも象徴される「総力戦(トータル・ウォー)」である。
日本軍部への衝撃と危機感
大正期の日本は、日英同盟を理由に第一次世界大戦に参戦し戦勝国となったものの、主戦場であるヨーロッパの凄惨な総力戦の実態は、欧州へ派遣された観戦武官たちに多大な衝撃を与えた。
特に、のちに日本陸軍の中心的存在となる永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次らの若手将校(いわゆるバーデン・バーデンの密約組)や、陸軍首脳の宇垣一成らは、将来の戦争が不可避的に総力戦となることを予見した。彼らは、当時の日本の貧弱な重工業力や資源の乏しさを痛感し、万が一欧米列強との総力戦に巻き込まれれば日本は到底生き残れないという強い危機感を抱いた。この認識は、平時から国家の全機能を戦争に対応させる「国家総動員体制」の構築が急務であるという、軍内部の強い潮流を生み出すこととなった。
総力戦体制への模索と軍備の近代化
この危機感を背景に、大正時代の日本は総力戦に向けた体制づくりに着手した。1918(大正7)年には軍需工業動員法が制定され、平時からの軍需産業の保護調査や、有事の際の工場徴用が規定された。また、1920年代には内閣に国勢院(のちの資源局)が設置され、国家資源の総合的な調査・管理機能の強化が図られた。
軍事面では、1925(大正14)年に陸軍大臣・宇垣一成のもとで断行された宇垣軍縮が特筆される。これは、大正デモクラシー期における財政緊縮と軍縮の要請に応える形で4個師団を削減したものであるが、その真の目的は、削減により浮いた予算を戦車、航空機、機関銃などの近代兵器の導入や軍事研究に回し、軍隊の質を総力戦型へと転換させる「軍備の近代化」にあった。さらに、このとき中学校以上の学校に現役将校を配属する学校教練制度も創設され、国民に対する軍事教育を通じた精神的動員の基礎も築かれた。
昭和期の「高度国防国家」建設へ
大正時代に芽生えた総力戦への備えは、昭和初期の満州事変(1931年)以降、より切迫した国家目標となった。軍部は世界恐慌後のブロック経済化や国際的孤立を背景に、自給自足を図る「高度国防国家」の建設を強力に推進し、政治や経済への介入を深めていく。
日中戦争が泥沼化する中の1938(昭和13)年、第1次近衛文麿内閣のもとで国家総動員法が制定された。これにより、政府は帝国議会の承認なしに国民の人的・物的資源を無制限に統制・動員できる強大な権限を手にした。第一次世界大戦という「他山の石」から輸入された総力戦の概念は、軍国主義への傾斜の中で法的・制度的に結実し、最終的にアジア太平洋戦争において日本社会全体を未曾有の破局へと巻き込む原動力となったのである。