後嵯峨上皇

この人物の死後、天皇家が持明院統と大覚寺統に分裂する原因を作った、鎌倉時代中期の天皇(上皇)は誰か?
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重要度
★★

後嵯峨上皇 (ごさがじょうこう)

1220年〜1272年

【概説】
鎌倉時代中期の第88代天皇、および治天の君として長期にわたり院政を行った上皇。承久の乱後の混迷期に鎌倉幕府の強力な介入によって即位し、朝幕関係の融和に努めた。しかし、自身の死に際して後継者を明確に指定しなかったことが、後の持明院統と大覚寺統による皇統分裂を招く契機となった人物。

幕府の介入による即位と「朝幕融和」の推進

後嵯峨天皇(即位前は邦仁王)は、承久の乱で幕府に協調的であった土御門上皇の御子であった。1242年、若き四条天皇が後嗣を定めないまま急死した際、朝廷の実力者であった九条道家らは順徳上皇の皇子である忠成王を擁立しようとした。しかし、承久の乱で幕府に強く抵抗した順徳上皇の血統を警戒した鎌倉幕府の執権北条泰時はこれに反対し、邦仁王の擁立を強硬に主張した。結果として幕府の意向が通り、後嵯峨天皇が即位することとなった。この皇位継承劇は、朝廷の決定権を幕府が完全に掌握したことを示す象徴的な出来事であった。

即位後、わずか4年で皇子の後深草天皇に譲位して院政を開始した。後嵯峨上皇は、幕府との良好な関係を維持するために朝廷の刷新を図った。幕府側の窓口として西園寺実氏を関東申次として重用し、自らも幕府の意向を尊重する政治姿勢(朝幕融和策)を一貫して崩さなかった。これにより、承久の乱以降の混乱期にあった朝廷政治は一時の安定期を迎えることとなった。

皇統分裂の火種となった二人の皇子への対応

後嵯峨上皇には、同母から生まれた二人の皇子、兄の後深草天皇と弟の亀山天皇がいた。上皇は次第に聡明な弟の亀山を偏愛するようになり、1259年に後深草天皇に対して退位を促し、亀山天皇を即位させた。さらに、将来の皇位継承者である皇太子(のちの後宇多天皇)も亀山の系統から選出し、後深草の系統を皇位から排除する姿勢を示した。この偏愛的な措置は、皇族や廷臣たちの間に深刻な対立の火種を植え付けることとなった。

「両統迭立」と南北朝時代への道程

1272年、後嵯峨上皇は病に倒れ、崩御した。その際、上皇は次代の朝廷の主導権を握る「治天の君」を誰にするか、また膨大な皇室領(八条院領など)をどちらの系統に相続させるかについて、明確な遺言を残さなかった。ただ「すべては鎌倉幕府の指示に従うように」という趣旨の遺志を示したに留まった。このため、残された後深草流と亀山流の双方が幕府に働きかけ、自らの正統性を主張する泥沼の争いへと発展した。

事態の調停に乗り出した鎌倉幕府は、双方の系統が交互に皇位に就く「両統迭立」の原則を提示した。これにより、後深草の系統である持明院統と、亀山の系統である大覚寺統という二つの皇統が並立することになり、この対立はのちの南北朝時代の動乱(吉野の南朝と京都の北朝の分裂)を引き起こす直接的な原因となった。

天皇の歴史6 江戸時代の天皇 (講談社学術文庫 2486)

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中世王権の形成と摂関家

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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