六波羅探題攻略 (ろくはらたんだいこうりゃく)
1333年
【概説】
鎌倉時代末期の1333年(元弘3年)、足利高氏(尊氏)が後醍醐天皇の討幕運動に呼応して挙兵し、京都にある幕府の機関を攻め落とした事件。これにより幕府の朝廷監視および西国統治の要衝が消滅した。同年に起こる鎌倉幕府滅亡への決定的な転換点となった出来事である。
足利高氏の派遣と離反の背景
後醍醐天皇による討幕運動である元弘の乱において、幕府側は有力御家人である足利高氏を名代として大規模な討伐軍を京都へ派遣した。しかし、かねてより北条氏の専制政治に不満を抱いていた高氏は、伯耆国の船上山へ脱出していた後醍醐天皇より、幕府打倒を促す綸旨(宣旨)を密かに受け取る。これに応じる形で高氏は幕府への叛意を固め、1333年5月、軍を進めていた丹波国の篠村八幡宮(現在の京都府亀岡市)にて、諸国の武士たちを呼び集めて倒幕の兵を挙げた。
六波羅陥落と鎌倉幕府の瓦解
高氏の挙兵に同調した播磨国の赤松則村(円心)や近江国の佐々木導誉(入道道誉)、千種忠顕らの勢力は、一斉に京都へと攻め寄せた。対する幕府の京都における拠点・六波羅探題(北方・北条仲時、南方・北条時益)は、高氏らの猛攻に耐えかねて陥落した。仲時らは光厳天皇や守邦親王を擁して東国(鎌倉)への脱出を試みたが、途中の近江国番場(現在の滋賀県米原市)で進路を阻まれ、仲時以下多数の将兵が自刃に追い込まれた。この六波羅探題の滅亡により、幕府の畿内における支配権は完全に崩壊し、関東で挙兵した新田義貞による鎌倉攻略を大いに促す結果となった。