大日本婦人会 (だいにほんふじんかい)
【概説】
太平洋戦争下の1942年、既存の主要な婦人団体を統合して結成されたファシズム期の巨大な官製婦人組織。満20歳未満の未婚者を除くすべての女性を強制的に加入させ、銃後における国家総力戦体制を支える動員装置として機能した。
三婦人団体の統合と結成の背景
日中戦争の長期化から太平洋戦争へと突入するなか、日本政府および軍部は、国民生活のあらゆる側面を戦争遂行のために動員する国家総力戦体制の構築を急いだ。その一環として、当時それぞれ独自の活動を行っていた主要な婦人団体の統合・一元化が図られることとなった。
統合の対象となったのは、上流・中流階級の女性を中心に社会奉仕活動を行っていた愛国婦人会(1901年結成)、文部省の指導のもと地域社会や学校を基盤に組織された大日本連合婦人会(1931年結成)、そして満州事変を機に陸軍の支援を受けて急成長し、割烹着(かっぽうぎ)をユニフォームとして庶民層に深く浸透していた大日本国防婦人会(1932年結成)の3団体である。これらの団体は、主導権争いや活動内容の重複が指摘されていたため、政府主導による統制(戦時統合)によって1942年2月に「大日本婦人会」として一本化された。
全女性の強制動員と銃後活動
大日本婦人会の最大の特徴は、加入が任意ではなく義務制(強制加入)とされた点にある。原則として満20歳以上のすべての女性(ただし20歳未満であっても既婚者は含む)が会員とされ、その規模はピーク時には約1900万人に達した。組織のトップである総裁には長谷川清子(元伯爵夫人)ら華族や軍人関係者が据えられたが、実質的な運営は内務省や文部省などの官僚機構、および地方の行政組織(町内会・隣組)と緊密に連動していた。
会員となった女性たちは、国防献金の収集、出征兵士の見送りや遺骨の出迎え、資源回収(金属回収や廃品回収)、生活の簡素化や貯蓄の奨励、配給業務の補助など、広範な銃後活動に従事させられた。さらに、戦局の悪化に伴って防空演習や竹槍(たけやり)を用いた戦闘訓練なども課されるようになり、家庭を守る主婦から戦争遂行のための直接的な兵站・労働力、さらには本土決戦の要員としての役割を求められるようになっていった。
総力戦体制下における歴史的意義と解体
大日本婦人会は、女性の自立や地位向上を目指す民主的な婦人運動を徹底的に抑圧し、国家主義・軍国主義のイデオロギーを家庭内にまで浸透させる役割を果たした。その一方で、それまで家庭内に留まりがちであった一般の主婦たちが、組織を通じて社会活動や地域運営に強制的にであれ参画することとなり、これが戦後の女性の社会進出や婦人参政権運動の心理的土壌の一部を形成したとする側面も指摘されている。
1945年、敗戦が不可避となるなかで政府はさらなる本土決戦体制の構築を急ぎ、同年6月に大日本婦人会を解散させ、男女共同の事実上の戦闘組織である国民義勇隊(国民義勇戦闘隊)へと吸収・再編した。そして同年8月の終戦を迎え、日本の軍国主義的組織の廃止方針に伴い、大日本婦人会はその歴史的役割を完全に終えた。