光厳天皇 (こうごんてんのう)
【概説】
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて在位した、持明院統の天皇。後醍醐天皇の討幕計画(元弘の変)に際して鎌倉幕府によって擁立されたが、幕府滅亡後に後醍醐から即位を否定される。その後、足利尊氏の室町幕府創設に伴って院政を開始し、北朝の事実上の祖(治天の君)となった人物である。
鎌倉幕府による擁立と「元弘の変」
鎌倉時代末期、皇統は国衙領などの皇室財産や皇位継承権を巡って、大覚寺統(後の南朝)と持明院統(後の北朝)の二つの系統に分裂し、幕府の調停によって交代で即位する「両統迭立」が行われていた。大覚寺統の後醍醐天皇が即位すると、天皇は一代限りの王統となることを嫌い、親政(建武の新政の端緒)や討幕運動を画策するようになる。
1331(元弘元)年、後醍醐天皇による討幕計画が露見して元弘の変が勃発すると、鎌倉幕府は後醍醐を廃位し、持明院統の量仁親王(かずひとしんのう)を光厳天皇として即位させた。しかし、後醍醐の討幕運動は各地の武士を巻き込んで拡大し、1333(元弘3)年に鎌倉幕府が滅亡すると、後醍醐天皇は京都に帰還して光厳天皇の即位を「なかったこと(無効)」とし、廃位に追い込んだ。このため、初期の段階ではその正統性が否定されるという、数奇な運命を辿ることとなった。
室町幕府の成立と「北朝の祖」としての院政
後醍醐天皇による建武の新政は、恩賞の不公平さや公家偏重の政策から武士層の不満を招き、急速に支持を失っていった。こうした中で台頭した足利尊氏は、新政に反旗を翻して京都を占領する。この際、尊氏が自らの行動を正当化する(官軍となる)ための権威として白羽の矢を立てたのが、光厳上皇であった。
尊氏は光厳上皇から「院宣(上皇の命令書)」を得ることで、後醍醐天皇を「朝敵」として討伐する大義名分を得た。尊氏は持明院統の光明天皇(光厳の弟)を新たに即位させ、光厳上皇は「治天の君」として院政を開始した。これに対し、吉野(奈良県)へ逃れた後醍醐天皇が自らの正当性を主張したため、日本は二つの朝廷が並立する南北朝時代へと突入する。光厳天皇は、この「北朝」の精神的・政治的支柱となったのである。
「観応の擾乱」と非運の晩年
室町幕府の主導権を巡って足利尊氏と弟の直義が争った観応の擾乱は、北朝の皇統にも深刻な影響を与えた。南朝との妥協を図った尊氏により、一時的に北朝の崇光天皇(光厳の子)が廃位される「正平一統」が結ばれる。この混乱に乗じた南朝軍が京都に侵入した際、光厳上皇は光明天皇、崇光天皇らとともに吉野へと拉致されてしまった。
数年間にわたる拉致監禁生活の中で、光厳上皇は深く絶望し、吉野の地で出家して禅僧となった。帰京を許された後も政治に関わることはなく、大和国や丹波国の寺院を転々としながら修行に励み、寂静の中でその生涯を閉じた。政争の具として翻弄され続けた悲劇の天皇であったが、その皇統はのちの崇光門流(伏見宮家)へと受け継がれ、現在の皇室へと繋がっている。