二所朝廷 (にしょちょうてい)
【概説】
平安時代初期の810年、平城京に退いた平城太上天皇と、平安京の嵯峨天皇の双方から国政に対する命令が下され、政治の中心が2ヶ所に分裂した状態。平城太上天皇の変(薬子の変)の直接的な契機となった二重権力状況を指す。この対立は、国家の最高意思決定機関が並立するという律令制下の重大な政治的危機をもたらした。
「二所朝廷」の成立:平城京と平安京の対立
大同4年(809年)、平城天皇は病を理由に退位し、同母弟の嵯峨天皇に譲位した。退位した平城太上天皇(上皇)は、自らの故郷であり平城遷都を強く望んでいたこともあって、翌年に旧都である平城京へと移り住んだ。この際、上皇の寵愛を受けて権力の再掌握を狙う尚侍の藤原薬子と、その兄である参議・藤原仲成らが上皇の側近として平城京に集結した。これにより、平安京の嵯峨天皇の宮廷と、平城京の平城上皇の宮廷という、2つの政治的権力センターが同時に存在する異例の事態となった。
二重権力の混乱と「宣旨」の対立
平城上皇が平城京に落ち着くと、上皇側は独自の政治的動きを活発化させた。太上天皇が天皇と同等の権限を持つという律令上の慣行を背景に、平城上皇は独自の「宣旨(命令)」を発給し始めた。これにより、平安京の嵯峨天皇が出す宣旨と、平城京の平城上皇が出す宣旨が同時に全国へ下されることになり、どちらの命令に従うべきか地方の国司や都の官人たちは混乱を極めた。この政治機能の分裂状態が「二所朝廷」と呼ばれ、国家の最高意思決定の分裂は律令秩序を揺るがす深刻な事態へと発展した。
「変」の結末と天皇権力の強化
弘仁元年(810年)9月、平城上皇側が平安京を廃して平城京への遷都を宣言したことで、両者の対立は決定的な衝突(平城太上天皇の変/薬子の変)に至った。嵯峨天皇は迅速に行動し、東国への連絡路を遮断するとともに、坂上田村麻呂らを派遣して平城京側を包囲した。結果、上皇側は挙兵に失敗して薬子は自殺、仲成は射殺され、「二所朝廷」の状態はわずか数日で解消された。この事件の解決により、嵯峨天皇は情報漏洩を防ぐための蔵人所を設置するなど、天皇への権力集中と専制化を急速に進めることとなった。