橘氏公 (たちばなのうじきみ)
783年〜848年
【概説】
平安時代初期の公卿。嵯峨天皇の皇后となった橘嘉智子(檀林皇后)の兄であり、妹とともに橘氏一族の教育機関である大学別曹「学館院」を創設した人物である。
橘氏の台頭と大学別曹「学館院」の設立
平安時代初期、橘氏は橘嘉智子が嵯峨天皇の皇后(檀林皇后)となったことで、急速に政治的地位を高めた。その皇后の兄である橘氏公もまた、一族の代表として重きをなすこととなる。氏公は、一族の安泰と優秀な人材を育成するため、妹の嘉智子と協力して、橘氏の子弟を教育するための大学別曹(官立の大学寮に付随する私立の寄宿舎・教育機関)である学館院(がっかんいん)を建立した。
当時、有力氏族の間では、藤原氏の勧学院、和気氏の弘文院、在原氏の奨学院など、一族の官僚登用を有利にするための教育機関を設ける動きが活発化していた。橘氏公による学館院の設立は、こうした時代の潮流に即し、橘氏を一流の貴族家系として存続させるための極めて重要な文化政策であった。
承和の変と政治的処世
橘氏公が生きた時代は、藤原氏(特に藤原北家の藤原良房)が他氏を排斥して権力を握っていく過程にあたっていた。842年(承和9年)に発生した承和の変では、同族の橘逸勢(たちばなのはやなり)が謀反の疑いで流罪となり、橘氏は政治的な打撃を被ることとなる。
しかし、氏公自身は変の直前に参議から大納言へと昇進しており、変の直後には右大臣にまで上り詰めた。これは、藤原良房が妹の嘉智子(嵯峨上皇の皇太后)との協調関係を重視したためであり、氏公は藤原氏の台頭期において、橘氏の家格を辛うじて維持する役割を果たした政治家でもあった。