明暦の大火(振袖火事)

1657年に江戸の大半を焼き尽くし、江戸城天守も焼失した大火災を何と呼ぶか。
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明暦の大火(振袖火事) (めいれきのたいか(ふりそでかじ)

1657年

【概説】
1657年(明暦3年)、江戸の市街地の大半を焼き尽くした未曾有の大火災である。江戸城の天守閣までもが焼失するほどの猛威を振るい、数万人規模の犠牲者を出した。この大火を契機として幕府は大規模な都市計画を実行し、防災都市としての新たな江戸の街づくりが進められた。

未曾有の大災害と「振袖火事」の伝説

1657年(明暦3年)の1月18日から20日にかけて発生した明暦の大火は、のちの明和の大火・文化の大火と並ぶ「江戸三大火」の筆頭に挙げられる大災害である。折からの乾燥と強い北西の季節風に煽られ、火の手は瞬く間に江戸市中へと広がった。出火元については諸説あるが、本郷丸山の本妙寺が火元とされるのが一般的である。供養のために火に投じた少女の振袖が風で舞い上がり、本堂に燃え移ったという伝説から、別名「振袖火事」とも呼ばれる。この火災による被害は甚大であり、江戸の市街地の約6割が灰燼に帰し、死者は数万人(一説には10万人前後)に達したと推定されている。

江戸城天守の焼失と保科正之の決断

火災の猛威は将軍の居城である江戸城にも及び、本丸、二の丸、三の丸の御殿が全焼し、江戸の象徴であった天守閣も焼け落ちた。大名屋敷や旗本屋敷、多くの寺社や町屋もなす術なく焼失した。当時の将軍は第4代徳川家綱であったが、幕政を主導していたのは将軍の叔父にあたる保科正之や、老中・松平信綱らであった。被災後、江戸城天守の再建が持ち上がったが、保科正之は「天守は戦国時代の象徴であり、泰平の世には無用の長物である。今は城の再建よりも民の救済と江戸の復興を優先すべきだ」と主張した。この進言により、以後江戸城に天守閣が再建されることはなく、幕府の莫大な資金は都市の復興へと注がれることとなった。

大規模な都市改造と防災対策

幕府は直ちに備蓄米を放出して被災者の救済にあたる一方、二度とこのような大火を起こさないための抜本的な都市計画(江戸の再建)に着手した。まず、密集していた市街地の構造を見直し、延焼を防ぐための火除地(ひよけち)や広小路を市内の随所に設けた。また、江戸城の防備上の観点から城郭に近接して配置されていた御三家(尾張・紀伊・水戸)の屋敷を城外へと移転させ、その跡地を火除けの空き地とした。さらに、大名や旗本の屋敷の再配置を行い、市中に密集していた寺社を郊外へ移転させた。幕府公認の遊郭であった吉原も、日本橋付近から浅草裏手の日本堤へと移され、これが「新吉原」と呼ばれるようになる。

市街地の拡大と「大江戸」の誕生

明暦の大火以前の江戸は、防犯・防衛上の理由から隅田川に橋を架けることを極力避けていた。しかし、この大火では川に阻まれて逃げ場を失い、焼死したり溺死したりする者が続出した。この反省から、幕府は隅田川に両国橋を架設し、有事の際の避難路を確保した。これにより、それまで未開発であった隅田川の東岸(本所・深川地区)へのアクセスが容易になり、郊外へと移転させられた武家屋敷や寺社、新たな町屋が次々と形成されていった。明暦の大火は江戸の街に壊滅的な打撃を与えたが、逆説的には江戸の市街地を大きく外縁部へと拡張させる契機となった。この復興と都市改造を経て、江戸は人口100万人を擁する世界有数の巨大都市「大江戸」へと発展していくこととなる。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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Q. 1882年に東京(新橋〜日本橋間など)で開業した、道路に敷かれたレールの上を馬が引いて走る乗り物は何か?
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Q. 『春色梅児誉美』などを著して人情本というジャンルを確立し、江戸の女性読者の人気を集めたが、天保の改革で処罰された作家は誰か?