真言宗
【概説】
平安時代初期に空海(弘法大師)が唐から持ち帰った純粋な密教(純密)を基盤として開いた日本仏教の宗派。宇宙の真理そのものである大日如来を本尊とし、「即身成仏」の教義や加持祈祷による現世利益を説き、平安貴族や国家の厚い帰依を受けた。同時代の天台宗とともに平安仏教の双璧をなし、日本文化や神仏習合の発展に多大な影響を与えた。
空海による純密の請来と開宗
804年(延暦23年)、空海は遣唐使の留学僧として唐へ渡り、長安の青龍寺で密教の正統な継承者である恵果(けいか)に師事した。恵果から密教の奥義を短期間で伝授された空海は、第八祖として膨大な経典や法具、曼荼羅を携えて806年に帰国した。それまで日本に伝わっていた密教は、呪術的な要素が強く体系化されていない「雑密(ぞうみつ)」であったが、空海が請来したのは、高度な哲学的体系を備えた「純密(じゅんみつ)」であった。空海は816年に嵯峨天皇から紀伊国の高野山を下賜されて金剛峯寺を開創し、これを修禅の道場とした。さらに823年には平安京内の東寺(教王護国寺)を賜り、国家鎮護と密教流布の根本道場とすることで真言宗の基盤を確固たるものとした。
真言密教の教理と「即身成仏」
真言宗の教義の最大の特徴は、宇宙の真理そのものを神格化した法身仏である大日如来を根本仏(本尊)と位置づける点にある。釈迦如来などの他の諸仏は、すべて大日如来が衆生を救済するために姿を変えた顕現(化身)であると説く。空海はその著書『即身成仏義』において、手に印契を結び(身密)、口に真言を唱え(口密)、心に大日如来を観想する(意密)という「三密の行」を実践することで、凡夫であってもこの現世の肉身のままで直ちに仏になることができるとする「即身成仏(そくしんじょうぶつ)」を唱えた。また、この深遠で神秘的な真理は文字や言葉だけでは伝えきれないとし、金剛界と胎蔵界からなる両界曼荼羅(りょうかいまんだら)を用いて、仏の世界を視覚的に表現し教化を行った。
天台宗との比較と「東密」の確立
平安時代初期の仏教界において、真言宗は最澄が開いた天台宗とともに、奈良時代の旧仏教(南都六宗)に対する新仏教として並び称される。最澄は法華経を最高位の経典としつつ、密教・禅・戒を融合する立場をとったため、帰国後に空海から密教の教えを請うこととなった。しかし、密教こそを独立した至高の教えとする空海と、法華経の補助とみなす最澄との間で次第に教理上の対立が生じ、両者は決別した。その後、天台宗においても円仁や円珍らによって本格的な密教化が進められ、天台宗の密教は「台密(たいみつ)」と呼ばれるようになった。これに対し、東寺を本山とする真言宗の密教は「東密(とうみつ)」と称され、日本密教の二大潮流を形成していくことになる。
国家鎮護と貴族社会への浸透
真言密教が平安時代において急速に支持を拡大した最大の理由は、加持祈祷による「現世利益」の追求が当時の社会的な要請に合致していたからである。怨霊の跳梁や疫病、天災に深く怯えていた平安貴族にとって、呪術的な力によって災厄を退け、病気平癒や怨敵退散、安産などを祈願する密教の修法は極めて魅力的であった。空海が宮中で行った天皇のための祈祷(後七日御修法)は恒例化し、真言宗は国家鎮護を担う権門としての地位を確立した。さらに、大日如来を日本の最高神である天照大神と同一視する思想は、日本古来の神祇信仰と仏教を融合させる神仏習合を強力に推し進め、後の「両部神道」が成立する思想的土壌を築いた。
中世以降の展開と分派
平安時代後期から鎌倉時代にかけて、真言宗内でも新たな動きが生まれた。平安末期に覚鑁(かくばん)は、高野山に浄土教の要素を取り入れた教義を説いて大伝法院を建立したが、保守派の反発に遭って紀伊国根来寺(ねごろじ)に移った。後に覚鑁の教義を継承する一派は「新義真言宗」と呼ばれ、高野山や東寺を中心とする伝統的な「古義真言宗」と対立・分裂した。室町時代以降、新義真言宗は長谷寺を中心とする豊山派や、智積院を中心とする智山派へと発展していく。真言宗は貴族の宗教として出発したが、中世・近世を通じて高野聖(こうやひじり)による勧進活動や、「四国八十八箇所」の巡礼(お遍路)信仰などを通じて広く庶民の間に浸透し、現代に至るまで日本人の宗教観に多大な影響を与え続けている。