クルーゼンシュテルン
【概説】
ロシア帝国海軍の提督であり、同国初の世界周航を成し遂げた探検家。彼の著した『世界周航記』を巡る動きが、江戸幕府を揺るがした国家機密漏洩事件「シーボルト事件」を引き起こす遠因となった。
ロシア初の世界周航と長崎来航
バルト・ドイツ人出身のロシア海軍将校であるクルーゼンシュテルンは、1803年から1806年にかけて、ロシア人として初となる世界周航航海を指揮した。この航海は、太平洋交易の開拓や北米植民地(アラスカ)への補給路確保、そして日本との通商交渉を目的としていた。そのため、航海にはロシア皇帝アレクサンドル1世の親書を携えた正式な使節であるレザノフが同乗していた。
1804年(文化元年)、クルーゼンシュテルンが率いるナデジュダ号は長崎に来航した。しかし、当時の江戸幕府は旧来の対外方針を崩さず、半年以上にわたりレザノフらを留め置いた末に通商要求を拒絶した。この交渉の失敗が、後のロシア側による北方領土への武力報復活動(フヴォストフ事件)へと繋がり、幕府に強い対外警戒感を抱かせることとなった。帰国後、クルーゼンシュテルンは航海の成果をまとめた『世界周航記』を出版し、ヨーロッパにおける地理学・探検史に大きな足跡を残した。
『世界周航記』が招いたシーボルト事件
クルーゼンシュテルンの『世界周航記』には、千島列島や樺太(サハリン)など日本近海の詳細な測量データや地図が掲載されていた。当時、ロシアをはじめとする異国船の出没に対して北方防備の強化を急いでいた幕府にとって、この書物は喉から手が出るほど欲しい地理情報の宝庫であった。幕府の書物奉行兼天文方であった高橋景保は、国防上の要請からこの書物の入手を熱望していた。
景保は、来日していたオランダ商館医シーボルトが『世界周航記』を所持していることを知り、これを譲り受けるよう交渉した。シーボルト側は交換条件として、日本国内の地図を要求した。景保は国防上の探求心から誘惑に勝てず、国外持ち出しが厳禁されていた伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」の縮図や、間宮林蔵の樺太地図などをシーボルトに渡してしまった。これが1828年(文政11年)に発覚した「シーボルト事件」である。ロシアの探検家が残した一大探検記録は、めぐりめぐって日本の蘭学界に甚大な被害をもたらす大弾圧の引き金となったのである。