会昌の廃仏 (かいしょうのはいぶつ)
【概説】
9世紀半ば、唐の第15代皇帝・武宗の時代に行われた中国史上最大規模の仏教弾圧事件。中国仏教史における「三武一宗の法難」の一つ(会昌の法難)であり、当時唐に留学中であった日本僧の円仁も巻き込まれた。この事件は、唐の衰退期における社会・財政政策の転換を示すとともに、日本仏教の歴史にも大きな影響を与えた。
道教への傾倒と国家財政の再建を目的とした大弾圧
唐の武宗は道教を熱心に信奉し、道士である趙帰真らの進言を入れて仏教の排除を企てた。しかし、この弾圧の背景には思想的な対立だけでなく、極めて現実的な財政上の理由が存在していた。当時の仏教寺院は広大な土地を領有して富を蓄積し、僧尼は租税や調役を免除されていたため、国家にとっては大きな財政赤字の要因となっていた。さらに、寺院の仏像や鐘などの銅製品を回収し、貨幣(開元通宝)や農具へと鋳潰すことで、国家財政の再建と経済の活性化を図る狙いがあった。
弾圧は845年(会昌5年)に最盛期を迎え、全国で4万6000余りの寺院が破壊され、26万人以上の僧尼が強制的に還俗(げんぞく)させられた。これにより、唐代に栄華を極めた仏教界は壊滅的な打撃を被り、以後の中国仏教の展開は禅宗や浄土教などの一部宗派に限定されていくこととなる。
円仁の受難と『入唐求法巡礼行記』に刻まれた実態
この未曾有の法難に長安で遭遇したのが、遣唐使に伴って入唐していた比叡山の僧・円仁(慈覚大師)である。天台宗の経典や密教の修法を求めて留学していた円仁であったが、廃仏の令により外国僧ながら強制的に還俗させられ、厳しい監視のもとで日本への帰国を余儀なくされた。
円仁が数々の苦難を経て帰国した際にもたらした膨大な経典や密教用具は、その後の日本天台宗(台密)の発展に決定的な役割を果たした。また、彼が著した日記『入唐求法巡礼行記』には、弾圧の生々しい実態や、激変する唐朝の社会情勢が克明に記録されている。同書は、マルコ・ポーロの『東方見聞録』や玄奘の『大唐西域記』と並ぶ東洋三大旅行記の一つに数えられ、会昌の廃仏の実相を現代に伝える極めて貴重な歴史的超一級史料となっている。