応天門 (おうてんもん)
【概説】
平安京の大内裏において、天皇が政務や儀式を行う朝堂院(八省院)の正門。平安初期の794年に創建され、866年には藤原氏による他氏排斥事件である「応天門の変」の舞台となり全焼したことで知られる、宮城を代表する壮麗な楼門である。
平安宮における応天門の構造と役割
応天門は、平安京の大内裏(宮城)において、天皇が政務や国家的な儀式を行う朝堂院(八省院)の正門である。南面する朝堂院の最南端に位置し、大内裏全体の中心的な南北軸上に据えられていた。唐の長安城の建築様式を模した朱塗りの壮麗な二重(2階建て)の楼門であり、宮城の威容を象徴する重要な建築物であった。
また、応天門の扁額(看板)は平安時代初期の著名な能書家である空海(弘法大師)が揮毫したものと伝えられている。この扁額にまつわる「応」の字の点を打ち忘れて門に掲げた後に、筆を投げつけて点を書き足したという伝説は、「弘法も筆の誤り」という故事成語の由来として広く知られており、この門がいかに人々の関心を集める象徴的な存在であったかを示している。
「応天門の変」と藤原氏の権力確立
応天門の歴史において最も重要な事件が、平安時代中期の866年(貞観8年)に発生した応天門の変である。同年閏3月10日の夜、応天門が突如として放火され、全焼する事件が発生した。大納言の伴善男(とものよしお)は、かねてより対立していた左大臣の源信(みなもとのまこと)による犯行であると主張し、朝廷に強く訴え出た。
しかしその後の密告により、真犯人は伴善男自身とその一味であるとされ、伴善男は伊豆国へ流罪となった。この事件の背景には、朝廷で急速に台頭していた藤原北家が、古くからの有力貴族である大伴氏(伴氏)や紀氏を排斥し、政権を独占しようとする意図があったとされる。事件の処理を主導した藤原良房(ふじわらのよしふさ)は、幼少の清和天皇に代わって、皇族以外で初となる摂政に正式に就任し、のちの摂関政治の基礎を確立することとなった。
視覚史料としての価値と後世への影響
応天門の炎上とそれに伴う政変の劇的な展開は、平安時代末期に制作された国宝の絵巻物『伴大納言絵詞』(ばんだいなごんえことば)に克明に描かれている。炎を上げて崩れ落ちる応天門や、それを取り巻く様々な階層の京の庶民・貴族たちの驚愕や混乱の表情が、優れた筆致で表現されている。この絵巻物は、歴史的事件の推移を伝えるだけでなく、平安時代の建築様式や庶民の風俗を知るための第一級の視覚史料となっている。
焼失した応天門はその後再建されたが、平安時代末期の治承の大火(太郎焼亡)などによって大内裏全体が荒廃していく中で、再び失われることとなった。近代になり、平安遷都1100年を記念して創建された平安神宮において、応天門は当時の2分の1のスケールで復元され、往時の平安京の面影を現代に伝えている。