平安宮 (へいあんきゅう)
【概説】
平安京の中央北部に置かれた、別名「大内裏(だいだいり)」とも呼ばれる宮城。天皇の住まいである内裏や、朝政・儀式を行う朝堂院、二官八省をはじめとする諸官庁が配置された政治・行政の中心地。古代の律令国家から中世へと移行する中でその姿を変貌させ、やがて衰退・焼失に至った。
平安宮の二重構造と主要施設
平安宮は、周囲を築地塀と「陽明門」や「美福門」など12の門(十二門)で囲まれた東西約1.2キロメートル、南北約1.4キロメートルの広大な領域を指す。これは平城宮の系譜を引きつつも、唐の長安城の構造を模倣・和風化させたものである。内部は大きく分けて、天皇の私的生活空間である内裏(だいり)と、国家的行事や政務を行う官衙(かんが)地区に分かれていた。
官衙地区の中心には、即位の礼などの最重要儀式を行う大極殿(だいごくでん)を擁する朝堂院(ちょうどういん)(別名:八省院)がそびえ、その西側には国家的な饗宴を行う豊楽院(ぶらくいん)が配置されていた。さらにその周囲を神祇官や太政官、二官八省といった諸官庁が取り囲んでおり、平安宮自体が強固な官僚制国家の象徴として機能していたのである。
里内裏の出現と平安宮の衰退
平安時代中期に入ると、平安宮は度重なる火災に悩まされるようになる。天徳4年(960年)の内裏初焼失を皮切りに、頻繁に火災が発生した。内裏が焼却された際、天皇は一時的に摂関家などの有力貴族の邸宅を仮の御所として遷った。これを里内裏(さとだいり)と呼ぶ。
当初、里内裏は一時的な避難所に過ぎなかったが、財政難から平安宮の再建が遅延するにつれ、里内裏で政務を行うことが常態化していった。この変化は、天皇が本来の宮城から離れ、摂関家の私邸を政治の場とすることにつながり、摂関政治の進展や、後の院政へとつながる政治体制の変化を空間的にも裏付けることとなった。
鎌倉時代の「安貞の大火」と廃絶
平安宮は、承久の乱(1221年)の後に鎌倉幕府の主導のもとで再建が進められた。しかし、安貞元年(1227年)に発生した大火(安貞の大火)により、再建途中の大内裏はほぼ全焼した。朝廷にはもはや再建する財政的・政治的実力はなく、これ以降、平安宮が再建されることはなかった。
かつての平安宮の跡地は、いつしか「内野(うちの)」と呼ばれる荒野となり、中世を通じて兵乱の地や治安の悪い空地へと変貌した。天皇の御所はその後、里内裏の一つであった土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)へと定着し、これが現在の京都御所の起源となった。