藤原伊周 (ふじわらのこれちか)
974年〜1010年
【概説】
平安時代中期の公卿で、関白・藤原道隆の嫡男。父の死後、叔父の藤原道長と執政の座を争うも敗れ、さらに「長徳の変」を起こして自滅・左遷された政治家である。
中関白家の栄華と若きエリートの台頭
藤原伊周は、摂政関白を務めた藤原道隆の嫡男として生まれた。母は高階貴子(儀同三司母)であり、漢学の素養に富む家系であった。伊周自身も若くして文才に優れ、父・道隆の強引な引き立てによって、弱冠21歳にして内大臣に上り詰めた。さらに妹の藤原定子が一条天皇の中宮(皇后)となったことで、伊周を擁する「中関白家」は宮廷政治の中心として一世を風靡した。このように、伊周の出世は次代の最高権力者となることを運命づけられているかのように見えた。
道長との対立と「長徳の変」による失脚
しかし、長徳元(995)年に父の道隆が病没すると、伊周の運命は暗転する。後継の関白(のちの内覧)の座を巡り、叔父の藤原道長と激しく対立した。一条天皇の母である東三条院(藤原詮子)の後押しを得た道長が次第に宮廷内での支持を広げるなか、焦った伊周は翌長徳2(996)年、弟の隆家とともに長徳の変を引き起こしてしまう。これは、自身が想いを寄せる女性のもとに通う花山法皇を、恋敵と誤解して弓で威嚇射撃した事件である。さらに、天皇を呪詛した嫌疑などもかけられ、伊周は大宰権帥へと左遷された。この失脚により中関白家は没落し、藤原道長による一強体制(御堂関白家)が確立することとなった。のちに伊周は帰京を許されたものの、政治的主導権を取り戻すことなく、失意のうちに没した。