長徳の変 (ちょうとくのへん)
996年
【概説】
平安時代中期の996年(長徳2年)に起きた、藤原伊周・隆家兄弟が花山法皇を襲撃したとされる政治的事件。この事件を契機に伊周らは左遷され、ライバルであった藤原道長の政権掌握が決定づけられた。
女性をめぐる誤解から生じた法皇襲撃事件
長徳の変の直接的な契機は、女性をめぐる私的なトラブルであった。関白・藤原道隆の急死後、その息子である内大臣・藤原伊周と、叔父の藤原道長との間で後継者争いが激化していた。そうした中、伊周は自分が通っていた女性(故藤原為光の三女)のもとに、出家した身である花山法皇が頻繁に通っていると誤解する。焦った伊周は、弟の藤原隆家に相談し、隆家の従者たちが法皇の御所を襲撃した。その際、放たれた矢が法皇の袖を射抜くという前代未聞の不祥事へと発展した。
中関白家の没落と藤原道長の覇権確立
この法皇襲撃に加え、皇太后(東三条院詮子)を呪詛した嫌疑や、天皇のみに許される秘法「大元帥法」を私的に行ったとされる罪も重ねて着せられ、朝廷は伊周を大宰権帥に、隆家を出雲権守へと左遷することを決定した。この事件により、伊周らの属する「中関白家(ちゅうかんばくけ)」は急速に没落し、一条天皇の皇后であった伊周の妹・藤原定子も出家を余儀なくされた。障害の消えた藤原道長は政権の主導権を完全に掌握し、のちの御堂関白家による摂関政治の全盛期を築くこととなった。