スターリン批判
【概説】
1956年のソ連共産党第20回大会において、第一書記フルシチョフが前指導者スターリンの個人崇拝や粛清の罪状を暴露・批判した歴史的事件。国際共産主義運動に甚大な衝撃を与え、冷戦構造や社会主義陣営のあり方を大きく揺るがした。日本においても、日本共産党の路線転換や知識人の思想的混迷、さらには新左翼運動の誕生を促すなど、戦後の政治・思想史における決定的な転換点となった。
フルシチョフの「秘密報告」と国際的衝撃
1953年のスターリンの死去に伴い、ソビエト連邦では集団指導体制へと移行し、一定の政治的緩和(「雪解け」)が始まっていた。その決定打となったのが、1956年2月に開催されたソ連共産党第20回大会である。大会の最終日、第一書記のフルシチョフは非公開の席において、スターリンが築き上げた個人崇拝体制の弊害や、無実の党員・市民を大量に処刑した「大粛清」の実態を告発する秘密報告を行った。
この報告はまもなく西側メディアを通じて全世界に暴露され、社会主義の道徳的優位性を信じていた内外の陣営に深刻な動揺をもたらした。東欧諸国ではソ連の支配に対する不満が噴出し、同年のポーランド暴動やハンガリー反ソ暴動(ハンガリー事件)へと発展するなど、国際政治の構図を根底から揺るがす事態となった。
日本共産党への打撃と「自主独立」への模索
スターリン批判は、敗戦後の日本において再建を果たした日本共産党に極めて深刻な打撃を与えた。当時の日本共産党は、1950年にコミンフォルムから平和革命路線を批判されたことを契機に分裂し、山村工作隊などを組織した「極左冒険主義」と呼ばれる武装闘争を展開していた。しかし、この方針は国民の支持を得られず、1955年の第6回全国協議会(六全協)において武装闘争方針を正式に放棄し、ようやく党の再統一を果たしたばかりであった。
六全協による混迷から立ち直ろうとした矢先のスターリン批判は、党にとって「二重のショック」となった。ソ連という絶対的な権威、ひいては指導者スターリンの「無謬性」が否定されたことで、党のアイデンティティは根本から揺らいだ。指導部は当初、この事態を過小評価しようとしたが、党員や支持者の動揺を抑えることはできず、後にソ連や中国の路線から距離を置く「自主独立」路線を模索する直接の引き金となった。
言論界・知識人の混迷と「新左翼」の誕生
戦後の日本思想界において、マルクス主義やソ連の社会主義は進歩的知識人や学生を中心に高い評価と信頼を得ていた。しかし、スターリンによる虐殺や抑圧の実態が白日の下にさらされたことで、これらを「進歩のシンボル」と見なしていた多くの知識人が精神的・思想的な転向を余儀なくされた。この失望と混乱は、日本の進歩的知識人社会の凋落の起点とも言われている。
一方で、スターリン批判とそれに続くハンガリー事件におけるソ連の武力介入は、既成の共産党や社会主義国に対する強烈な批判精神を生み出した。コミンテルン以来のモスクワを中心とする国際共産主義運動を「スターリニズム」として批判し、真のマルクス主義の復権を目指す若者や学生たちが台頭した。彼らは日本共産党から離脱・除名され、独自のセクトである新左翼(ニューレフト)を形成した。この新左翼運動の台頭は、1950年代末からのブント(共産主義者同盟)の結成へとつながり、1960年の安保闘争における激しい学生運動の源流となっていく。