西面の武士 (さいめんのぶし)
【概説】
鎌倉時代初期に後鳥羽上皇が院の警護と軍事力強化のために創設した武士の組織。院の御所の西面に詰め所が置かれたことに由来する。鎌倉幕府に対抗すべく独自の武力を結集させる目的で設けられたが、承久の乱での敗北により廃止された。
西面の武士の創設とその背景
1198年(建久9年)、後鳥羽天皇は土御門天皇に譲位して院政を開始した。翌1199年には鎌倉幕府を創設した源頼朝が没し、幕府内部では有力御家人同士の権力闘争が激化していく。このような情勢のなか、後鳥羽上皇は朝廷の権威回復と専制的な院政の強化を目指した。その一環として、院の御所(院御所)の西側に新たな武士の詰め所を設け、そこに召し抱えた武士たちを「西面の武士」と呼んだ。
設置の正確な時期については諸説あるが、頼朝の死後まもない時期に組織されたとみられている。彼らは上皇の側近として近侍し、京都の治安維持や院の警護にあたったが、その真の目的は、いずれ避けられないであろう鎌倉幕府との軍事的対立(後の承久の乱)に備え、朝廷独自の強固な軍事基盤を構築することであった。
従来の「北面の武士」との違いと構成
院の警護を行う武士としては、すでに平安時代後期に白河上皇が創設した「北面の武士」が存在していた。後鳥羽上皇は従来の北面の武士を存続させつつ、さらに選りすぐった武芸に秀でた者たちを取り立てて西面の武士を組織した。北面が次第に儀礼的・貴族的な性格を帯びていたのに対し、西面はより実戦を想定した純粋な軍事組織としての色合いが強かった。
また、西面の武士には、畿内や西国の武士だけでなく、鎌倉幕府の有力な御家人も多く含まれていた点が大きな特徴である。上皇は、豊富な財力を背景とした所領の安堵や、権威を利用した官位の授与といった恩賞を巧みに用いることで、幕府に不満を持つ御家人や京に滞在する在京御家人を自らの陣営に引き入れた。これにより、一部の武士は幕府の将軍と朝廷の上皇の双方に仕える二重の主従関係を持つことになり、幕府の統制を揺るがす大きな要因となった。
承久の乱における役割と終焉
1219年(建保7年)、鎌倉幕府の第三代将軍・源実朝が暗殺されると、後鳥羽上皇はこれを倒幕の絶好の好機と捉えた。1221年(承久3年)、上皇はついに執権・北条義時追討の院宣を下し、承久の乱が勃発する。この挙兵において、西面の武士は朝廷軍の中核としての役割を期待され、実際に軍勢の主力として出陣した。
しかし、北条政子の演説によって結束を固めた幕府軍は、19万ともいわれる予想外の大軍で京都へ進撃し、朝廷軍は各地で圧倒された。西面の武士たちは宇治川の戦いなどで防衛線を張り激しく抗戦したものの、多勢に無勢で壊滅的な打撃を受けた。
歴史的意義
承久の乱の敗北により、後鳥羽上皇は隠岐へ配流となり、西面の武士は乱後ただちに廃止された。西面の武士は、わずか20年余りの短い期間しか存在しなかったが、鎌倉時代初期における「朝廷と幕府の二元支配」の限界と緊張関係を象徴する制度である。
それは、朝廷が自前で強力な軍事組織を編成し、東国の武家政権を実力で打倒しようとした歴史的挑戦の具現化であった。西面の武士の壊滅と廃止によって朝廷の武力保有は決定的に否定され、日本史は武家による全国支配の確立という新たな段階へ進むこととなったのである。