平和五原則
【概説】
1954年に中国の周恩来首相とインドのネルー首相による共同声明の中で示された、国際平和のための5つの外交原則。領土・主権の相互尊重、相互不可侵、相互内政不干渉、平等互恵、平和共存からなり、東西冷戦期における「第三世界」の台頭を象徴する基本理念となった。
冷戦期の対立緩和と「中印共同声明」
1950年代前半、世界はアメリカを中心とする資本主義(西側)陣営と、ソ連を中心とする社会主義(東側)陣営による東西冷戦の真っただ中にあった。特にアジアでは、朝鮮戦争の停戦(1953年)やジュネーヴ平和会議(1954年)によるインドシナ戦争の調停など、極度の緊張緩和(デタント)の兆しが見えつつも、依然として一触即発の状況が続いていた。
このような状況下、1954年4月に中国とインドの間でチベット問題に関する協定が結ばれた。これを踏まえ、同年6月に中国の首相である周恩来がニューデリーを訪問し、インド首相のネルーと会談。その際に発表された共同声明の中で公式に表明されたのが「平和五原則」である。両国は、領土保全・主権尊重、相互不可侵、内政不干渉、平等互恵、平和共存という5つの基本理念を掲げ、異なる社会体制を持つ国同士であっても平和的に共存できることを世界に示した。
アジア・アフリカ会議への発展と「第三世界」の自立
平和五原則は、植民地支配から脱したばかりのアジア・アフリカの新興独立国に広く受け入れられた。この原則は、米ソのどちらの陣営にも属さない「非同盟・中立」の立場をとる第三世界(アジア・アフリカグループ)の思想的支柱となった。
1955年、インドネシアのバンドンで史上初のアジア・アフリカ首脳会議(バンドン会議)が開催されると、平和五原則はさらに発展・具体化され、植民地主義の反対や人種差別の撤廃などを盛り込んだ「平和十原則」へと結実した。これにより、冷戦の二大国に依存しない独自の政治勢力としての「第三世界」が国際社会で確固たる地位を築く契機となった。
戦後日本外交における意義と日中関係への影響
当時の日本は、1952年のサンフランシスコ平和条約発効によって独立を回復したものの、日米安全保障条約を基軸とする西側陣営の親米外交を展開していた。しかし、アジア諸国との国交回復や関係改善は急務であり、1955年のバンドン会議には、当時の鳩山一郎内閣が経済審議庁長官の高碕達之助を政府代表として派遣した。日本はこの会議でアジアの一員としての復帰をアピールし、平和五原則に基づく平和共存の姿勢を支持した。
さらに後年、日本が1972年に中国との国交正常化を果たす際、共同声明(日中共同声明)の文脈においても、主権・領土保全の相互尊重や内政不干渉といった平和五原則の精神が基本的な外交方針として再確認された。平和五原則は、冷戦下における日本の戦後外交や近隣諸国との関係構築において、今なお重要な道標として位置づけられている。