労働争議
【概説】
労働者が賃上げや労働環境の改善などを求めて、資本家(経営者)に対して起こしたストライキなどの争議行動。日本の資本主義が発達した明治後期に散見されるようになり、第一次世界大戦後の大正期には社会問題化するほど急増した。
資本主義の発達と初期の労働運動
日本における労働争議は、日清・日露戦争期にかけて産業革命が進展し、資本主義体制が確立していく過程で発生し始めた。当時の労働環境は「女工哀史」に象徴されるように極めて劣悪であり、長時間労働と低賃金が常態化していた。これに対し、労働者は自然発生的にストライキなどの実力行使に出るようになった。
1897年(明治30年)、高野房太郎や片山潜らによって労働組合期成会が結成され、日本鉄道会社の機関方ストライキなど一定の成果を上げることもあった。しかし、政府は1900年(明治33年)に治安警察法を制定してストライキを法的に禁止し、初期の労働運動は厳しい弾圧を受けて一時的に衰退を余儀なくされた。
大正デモクラシーと争議の急増
労働争議が本格的に激化し、全国的な社会問題となったのは大正時代に入ってからである。第一次世界大戦(1914年〜1918年)に伴う大戦景気により日本の重化学工業は飛躍的な発展を遂げたが、同時に急激なインフレーションを招き、物価の高騰に賃金上昇が追いつかず、労働者の生活は困窮を極めた。
1918年(大正7年)に発生した米騒動を契機として民衆の権利意識が一気に高揚し、いわゆる大正デモクラシーの風潮の中で、労働争議は爆発的に増加した。1919年(大正8年)にはストライキの件数が前年の数倍に跳ね上がり、労働者は単なる賃上げだけでなく、労働時間の短縮(8時間労働制の導入)や、労働組合の承認・団体交渉権の確立といった根本的な権利を強く要求するようになった。
労働組合の組織化と体制側の対応
労働争議の急増に伴い、労働組合の組織化も急速に進んだ。1912年(大正元年)に鈴木文治らが結成した友愛会は、当初は労使協調と労働者の地位向上を掲げる穏健な団体であったが、大正中期の労働運動の高揚とともに急進的な性格を強め、1921年(大正10年)には日本労働総同盟と改称して階級闘争的姿勢を明確にした。
一方、資本家や政府は、増え続ける労働争議に対して「飴と鞭」の政策で臨んだ。1916年(大正5年)には労働者保護を目的とした工場法を施行し、1922年には治安警察法第17条(ストライキの禁止条項)を撤廃するなどの譲歩を見せた。しかし、労働運動が社会主義や共産主義と結びつくことを極度に警戒した政府は、1925年(大正14年)に治安維持法を制定し、体制の変革を企図する過激な労働運動に対しては徹底的な弾圧を加えた。
歴史的意義と戦後への展開
大正期から昭和戦前にかけての労働争議は、日本社会における資本主義の矛盾を浮き彫りにし、労働者の権利意識を形成する重要な原動力となった。戦前においては、労働者の団結権や争議権が法的に完全に保障されることはなかったものの、この時期に培われた運動の経験や組織論は、その後の社会運動の土台となった。
第二次世界大戦での敗戦後、GHQの民主化政策の一環として労働組合法(1945年)をはじめとする労働三法が整備されたことで、労働争議は初めて正当な権利(争議権)として法的に保障されるに至った。大正期の労働争議は、現代の労働基本権確立に向けた苦難の歴史の第一歩であったと評価できる。