紅衛兵 (こうえいへい)
【概説】
中国のプロレタリア文化大革命において、毛沢東の呼びかけに呼応して結成された学生主体の極左過激派組織。
「造反有理」を掲げて既成の権威や文化を暴力的に破壊し、劉少奇ら実権派の打倒闘争を過激に展開した。
日本国内の思想界や1960年代後半の学生運動(全共闘運動など)にも決定的な影響を与え、昭和の日本社会に大きな思想的衝撃をもたらした。
毛沢東の呼びかけと「造反有理」の熱狂
1966年、中国共産党主席の毛沢東は、自身の権力を回復し、党内で台頭していた資本主義的傾向(修正主義)を排除するため、青年学生を動員してプロレタリア文化大革命(文革)を開始した。これに応じる形で北京の学生たちが結成したのが「紅衛兵」である。彼らは「造反有理(謀反には道理がある)」や「革命無罪」のスローガンを掲げ、毛沢東思想を絶対的な真理として奉じた。毛沢東自身が天安門広場で百万人の紅衛兵を接見し、彼らを熱烈に支持したことで運動は瞬く間に中国全土へ拡大。知識人、教師、地主、さらには旧来の文化財や宗教施設などを「四旧(古い思想・文化・風俗・習慣)」として暴力的に否定・破壊する大混乱を引き起こした。
実権派の弾圧と組織の自滅
紅衛兵の主要な攻撃対象となったのは、国家主席の劉少奇や総書記の鄧小平ら、現実的な経済再建を目指す「実権派(走資派)」であった。彼らは容赦ない「つるし上げ(自己批判の強要)」に遭い、非人道的な暴力を受けて失脚へと追い込まれた。しかし、紅衛兵の運動は次第に統制を失い、派閥同士による武器を用いた凄惨な武力衝突(武闘)へと発展し、社会を無政府状態に陥れた。国家の崩壊を危惧した毛沢東は、1968年以降、人民解放軍を投入して事態の収拾を図り、紅衛兵の若者たちを「上山下郷(下放)」として地方の農村へ強制的に送り出すことで運動を終息させた。
日本社会と昭和の学生運動への多大な影響
紅衛兵の思想と過激な行動は、当時の日本の知識人や若者、とりわけ新左翼運動や全共闘(全学共闘会議)運動に決定的な影響を与えた。ベトナム戦争への反対運動や日米安全保障条約改定(安保闘争)で揺れる1960年代後半の日本において、「造反有理」の教義は大学の権威や既成の社会秩序に反抗する日本の学生たちの精神的支柱となった。毛沢東の肖像画や『毛沢東語録』を掲げたヘルメット姿の学生たちが、大学のバリケード封鎖や街頭でのゲリラ戦を展開する様子は、まさに中国の紅衛兵の運動と軌を一にするものであった。また、この文革と紅衛兵を巡る評価は日本共産党と中国共産党の対立を決定決定的なものにし、日本の革新勢力の分裂と、その後の極左過激派の先鋭化(内ゲバの凄惨化)を促す一因ともなった。