平和十原則(バンドン十原則)
【概説】
1955年にインドネシアのバンドンで開催されたアジア=アフリカ会議(バンドン会議)において採択された、国際平和のための10項目の原則。前年に中国の周恩来とインドのネルーの間で確認された「平和五原則」を拡張したものであり、基本的人権の尊重や内政不干渉、主権の尊重などを柱とする。冷戦期における第三世界の台頭を象徴するとともに、日本の戦後外交におけるアジア復帰の重要な契機となった。
平和五原則から平和十原則への展開
第二次世界大戦後のアジアやアフリカでは、欧米諸国の植民地支配から脱した新興独立国が次々と誕生した。これら諸国は、アメリカを中心とする資本主義陣営(西側)と、ソ連を中心とする社会主義陣営(東側)による冷戦の対立から距離を置き、独自の連帯を模索した。これが第三世界と呼ばれる勢力の形成である。
1954年、中国の首相・周恩来とインドの首相・ネルーが会談し、領土保全・不侵略・内政不干渉・平等互恵・平和共存からなる「平和五原則」を発表した。これを土台に、翌1955年4月、インドネシアのバンドンにアジア・アフリカの29カ国が集まり、初のアジア=アフリカ会議(バンドン会議)が開催された。同会議では、親米派・親ソ派・中立派など各国の立場が激しく交錯したが、最終的に平和五原則を内包・拡張する形で、基本的人権の尊重や国際紛争の平和的解決、人種差別の終絶などを含む平和十原則(バンドン十原則)が共同宣言として採択された。
日本の国際社会復帰とアジア外交の再出発
1951年のサンフランシスコ平和条約締結によって独立を回復した日本にとって、バンドン会議への参加は、アジア諸国との関係を改善し、国際社会への本格的な復帰を果たす上で極めて重要な機会であった。当時の鳩山一郎内閣は、日米関係を基軸としつつも、アジア諸国との国交正常化や経済協力を模索する「自主外交」を掲げていた。
日本は経済審議庁長官の高碕達之助を首席代表とする代表団を派遣した。かつての侵略戦争に対するアジア諸国の警戒感が根強く残る中、日本代表団は戦争への反省と経済協力を強調し、平和国家としての姿勢をアピールした。高碕は会議の場で中国の周恩来と個別に対談したほか、未解決であった東南アジア諸国との賠償交渉を進める足がかりを築いた。平和十原則への賛同は、日本がアジアの一員として再出発する意思を国際社会に示すこととなった。
歴史的意義と日本外交への影響
平和十原則は、大国の覇権主義や植民地主義を否定し、すべての国家の主権と平等を訴えた点で、その後の国際秩序に多大な影響を与えた。この精神はのちに「非同盟運動」へと受け継がれ、国際連合におけるアジア・アフリカグループの政治的発言力を急速に高める原動力となった。
一方、日本にとっては、この原則への関与が戦後における「アジア外交」の出発点となった。西側陣営の一員としてアメリカとの安全保障条約(日米安保体制)を最優先にしつつも、アジア諸国との緊密な経済・外交関係を構築していくという、戦後日本外交が抱える独自の二面性を象徴する出来事でもあった。